【評伝】小嶺忠敏さん死去 現場で生き、現場で逝った人生

 「子どもたちのためだったら、勝つためだったら、僕は何でもやるよ」。酒を飲んで冗舌になった際、よくそう話していたのを思い出す。高校サッカー界の名将、小嶺忠敏さんが7日、死去した。サッカーに情熱を注ぎ続けた「小嶺先生」の最期は、第100回の節目を迎えた全国高校サッカー選手権の期間中。それも「夢のまた夢の場所」と言っていた東京・国立競技場で行われる準決勝の前日だった。
 初めて会ったのは約30年前。Jリーグ発足以前で、まだ国内でサッカーが超メジャー競技とは言えなかったころだった。ちょっと近寄りがたい雰囲気の高校教諭は「これからは必ずサッカーの時代になる」と力説していた。その予言通りにサッカー人気は急上昇。足並みをそろえるように、県立国見高を全国屈指の強豪に育て上げた。
 冬の選手権へのこだわりは人一倍だった。それを象徴するような“事件”が2000年夏、岐阜インターハイ決勝後に起きた。ワールドカップに2度出場した大久保嘉人さんらを擁して優勝したのだが、試合後、胴上げしようと駆け寄ってきた選手たちを一喝した。「ここで浮かれるな。おれは悲しいよ。勝負は冬だろ」。その年の冬、日本一になった大久保さんたちは大観衆の前で恩師を胴上げした。
 一度、自らの道をそれかけたことがある。07年7月の参院選だ。引退議員の後任に推され、自民党公認候補として出馬したが、自民に逆風が吹き荒れて敗れた。落選後、酒席で聞いた言葉が忘れられない。「教育現場を本当に知る人間が必要だと思っていたが、政治の世界は汚かった。もう二度とやることはないよ」。冗談交じりに「先生が死んだら、それ書いていいですか」と聞き返すと、豪快に笑いながら「ぜひ書いてくれんね」と返してきた。翌年、先生は長崎総合科学大の特任教授となり、再びグラウンドに戻っていた。
 10年ほど前から体調を崩し、酒を飲まなくなり、痩せた。それでも、熱心に指導を続け、今冬も長崎総合科学大付属高を8度目の選手権に導いていた。ベンチに入ることはできなかったが、最後の最後まで現場で生き、現場で逝った人生。「僕はね、サッカーが、子どもが好きなんですよ」。そんな人だった。


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