焼き物のまち波佐見 各所に白磁の聖徳太子像、なぜ? 100年前の大正期に全国ブーム 支えた陶芸家

白磁の聖徳太子像。町内の複数箇所に同じ像が確認できた=波佐見町井石郷

 長崎県東彼波佐見町内のあちこちに、白磁製の聖徳太子像を納めたお堂が存在する。焼き物のまちで、なぜ聖徳太子? 調べると、約100年前に起こった“聖徳太子ブーム”と、歴史の影に埋もれた1人の陶芸家が浮かび上がった。

■ 切れ長な目
 中尾郷・白岳山の頂上にコンクリート製の「聖徳太子堂」がある。堂内の太子像は高さ約60センチ。一見すると柔和だが、切れ長な目にはりんとした雰囲気もある。堂の門柱には今から99年前の「大正十二年四月三日」とある。
 町内には他にも同じような太子堂があると知り、地域住民に聞きながら探し回った。井石郷の商工会支所裏、折敷瀬郷の舞相会館、鬼木郷の墓地、村木郷の神社境内、田ノ頭郷の民家近くなどで見つけることができた。いずれも同じ型で作ったとみられる白磁の太子像が置かれている。
 井石郷の太子堂に、地元の人がまとめた経緯が張られていた。現在の建物は2代目で、初代は1921(大正10)年に建てられたという。時期は白岳山と近い。約100年前の大正時代末期に、相次いで建ったということだろうか。

白岳山の頂上にある聖徳太子堂の門柱。「大正十二年」の文字が読める=波佐見町中尾郷

■ 没後1300年へ
 町歴史文化交流館の学芸員、中野雄二さんが資料を見つけてくれた。36(昭和11)年発行の「肥前陶磁史考」(中島浩氣著)によると、太子像は、中尾郷の陶工、馬場猪之策が「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」の依頼で制作。全国各地の寺院などに納める太子像を100体余り作り「今なお完了を告げず謹製にいそしんでいる」とある。それにしても、なぜ波佐見に依頼があったのだろうか。
 「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」の会史をひもといてみた。その名の通り、太子の没後1300年となる21(大正10)年に向けて設立。記念法要を執り行うだけでなく、法要を国民的行事にまで盛り上げて、太子を顕彰する目的があった。明治期の廃仏毀釈(きしゃく)の影響もあり、世間一般で太子の評価は、今ほど高くなかったらしい。紙幣の肖像画に初めて登場するのも、昭和に入ってからだ。
 実際、副会長に名を連ねた実業家の渋沢栄一も、初めは参加を断ったとされる。ここで太子の実績を解説し、渋沢を口説き落としたのが波佐見町出身の歴史学者、黒板勝美だった。
 黒板は、後援集めや企画推進などの実務面で中心的な役割を担った。講演会開催や冊子配布などが奏功し、全国各地で“太子ブーム”が巻き起こった。これは推測だが、一連のキャンペーンの一環で、黒板が、太子像の制作を故郷に依頼したのかもしれない。

聖徳太子像の作者、馬場猪之策の遺影

■ ものづくり
 太子像の作者、猪之策のひ孫の馬場治久さん(62)は、今も中尾郷に住んでいた。会いに行くと「曽祖父が太子像を作っていたという話は聞いたことがある。でも自分もよく知らない」と申し訳なさそうに頭をかいた。仏間に飾られた猪之策の遺影を見ると、奇妙な感慨が押し寄せた。
 太子像の由緒や作者の存在を知る人は少なくなった。だが、取材で見た太子像の多くは、今でも定期的に例祭が行われるなど地域住民に大切に扱われていた。それは単に歴史上の偉人への敬意にとどまらない。この町に今も息づく、ものづくりそのものへの信仰心にも思える。


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