引き揚げの悲劇、語り継がなくては 岡孝一さん(89)=西海市西彼町= 「地獄だった」逃避行 戦争の記憶 2022ナガサキ

「開拓団員の中には残された孤児を引き取り日本に連れて帰った人もいた」と話す岡さん=西海市西彼町

 「牧歌的な暮らしは一変。引き揚げは地獄だった」
 長崎に原爆が投下された1945年8月9日。旧満州(中国東北部)ではソ連軍が国境を越え、侵攻を始めた。岡孝一さん(89)は当時13歳。国境近くの東満(とうまん)省穆棱(もうりょ)県(現・黒竜江省穆棱市)の開拓団の家族として、両親と4人きょうだいの6人で暮らしていた。
 父定(さだむ)さん(77年死去、享年80)は約180人の開拓団をまとめる団長だった。農業技術者で、家では軍馬や豚、鳥を飼い、冬は極寒の厳しい環境だったが「夏は過ごしやすく、景色も広大。空襲もなく穏やかだった」と振り返る。
 警察から避難勧告を受け家財道具を馬車にまとめ、10日朝、着の身着のまま家を出た。開拓団員らの馬車は隊列となり、鉄道の駅を目指して歩み始めた。
 「ブォーン」。昼前、戦闘機のエンジン音が響き、機銃掃射を受けた。岡さんはコウリャン畑に飛び込み、わが身を守るだけで精いっぱい。ある母親は負傷した乳児を抱きかかえていたが、ソ連軍に見つかる恐れもあり、避難を優先。夜通し歩いた。定さんが帰国後にまとめた開拓団の報告書にはこの逃避行で3人が亡くなり、10人は行方不明になったと記されている。
 11日に列車に乗り、翌日、牡丹江で15歳以上の男性は軍と行動を共にするために別れ、女性と子どもは屋根のない貨車に乗った。15日早朝、首都の新京(現・長春)に到着。昼に終戦を告げる玉音放送を聞いた。
 9月、開拓団は関東軍の将校宿舎を転用した収容所に入ることができたが、敗戦で現地の人と立場が逆転した。食糧増産という国策の下、満州の広野に入植した開拓団員たち。帰国を待つ間は食料事情や衛生状態も悪く、感染症で亡くなったり、路頭で倒れたりする日本人も少なくなかった。
 岡さんは郊外に借り出され、遺体を埋める穴を掘ったり、大八車で遺体を運んだりする作業にも携わった。冬は気温が氷点下20度まで下がり、土砂はコンクリートのように固まる。秋に掘った穴に遺体を置き、土は掘り返せないため、雪をかぶせて弔った。大変つらい記憶で「春に雪が解けた時、穴の中の遺体は野生動物か何かに食いちぎられ、無残だった」と涙ぐむ。自身も春先に発疹チフスにかかり、高熱に苦しんだ。
 46年9月、渤海(ぼっかい)に面した葫蘆(ころ)島から引き揚げ船に乗り博多港に上陸した。満員の船内では帰国を目前に力尽きた人もおり、海に遺体を流す水葬で弔われた。
 西彼町に戻ったのは10月。栄養失調で病弱だった弟は翌年の夏、8歳で亡くなった。定さんは地元農場の場長を務め、岡さんは大学で畜産を学び農業高校の教師となった。退職後は「地域のために」と町議を務め、護憲を訴えた。
 厚生労働省によると、旧満州での日本人の死者数は24万5400人に上る。収容された遺骨は3万9330柱(昨年12月末時点)。岡さんは「今でも多くの人が満州の広野に眠っている。引き揚げの悲劇を埋もれさせず、語り継がなくては」と遺体を弔ったその手をじっと見つめた。一方で開拓団の牧歌的な暮らしは「日本の侵略で成り立っていた。中国の人には申し訳ない」と振り返る。「戦争は二度とやってはいけない」

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