「50-100」の可能性を秘めていた男 元レッズのエリック・デービス

メッツのダリル・ストロベリーがテッド・ウィリアムスと比較されていた頃、ウィリー・メイズと比較された男がいた。1980年ドラフト8巡目指名でレッズに入団したエリック・デービスだ。抜群の身体能力を誇ったデービスは、メジャー3年目の1986年に27本塁打と80盗塁、翌1987年には37本塁打と50盗塁を記録。しかし、キャリアを通して故障や病気に悩まされ、140試合以上に出場したシーズンは1度もなかった。ポテンシャル的には「50-100」(シーズン50本塁打&100盗塁)も可能だったと言われている。

1987年、殿堂入りの名捕手ジョニー・ベンチは「先日ハンク・アーロンの若い頃の映像を見ていたんだけど、エリックにはそれと同じ強さや能力がある」と語った。デービスのメンター的役割を担ったデーブ・パーカーは「総合的な能力でエリック・デービスに匹敵する選手は(アとナの)どちらのリーグにもいない」とデービスの才能を絶賛。あのピート・ローズでさえ「彼は野球のユニフォームを着ていれば、やりたいことが何でもできる」と才能を認めていた。

メジャーリーグの歴史上「40-40」を達成した選手は過去に4人(1988年ホゼ・カンセコ、1996年バリー・ボンズ、1998年アレックス・ロドリゲス、2006年アルフォンゾ・ソリアーノ)いるが、「50-50」の達成者は1人もいない。デービスは1986年6月18日から1987年7月10日までの162試合で49本塁打と93盗塁、1986年6月8日から1987年6月27日までの162試合で46本塁打、99盗塁を記録したことがある。162試合のスパンでこれだけの数字を残した選手はメジャー史上ただ1人。デービスは「50-50」どころか「50-100」のポテンシャルを秘めていたというわけだ。

ところが、デービスがそのポテンシャルをフルに開花させることはなかった。1987年9月4日、チームを救うファインプレーを見せた際にリグリー・フィールドのレンガ造りの外野フェンスに激突して胸部を負傷。これ以降も高すぎる身体能力のせいで故障することが少なくなかった。ハムストリング、手首、膝、肩など故障が相次ぎ、1995年には首の故障でシーズンを全休。オリオールズで好スタートを切った1997年には大腸がんと診断され、長期離脱を強いられたこともあった。

がんを乗り越え、39歳となった2001年まで現役を続けたデービスだが、キャリア最後の11年間で100試合以上に出場できたシーズンは3度だけ。本塁打と盗塁の両部門で1987年(37本塁打と50盗塁)の数字を超えることはなかった。通算282本塁打、349盗塁を記録したデービスは、通算250本塁打、300盗塁以上を記録した16人のうちの1人だが、「もし故障の少ないキャリアを過ごしていれば前人未到の領域に達していたかもしれない」と考える球界関係者は少なくない。

しかし、デービスは「自分にとっての成功とは、他人に定義されるものではない」と強調する。特大アーチを放つパワーと盗塁を量産するスピードを両立できたのはキャリアのほんの一時期だけだったが、その鮮烈なプレーぶりは今でも当時のファンの目にしっかりと焼き付いている。「50-100」を達成するポテンシャルを秘めていた男のプレーは多くの人々の記憶に残っているのだ。

「自分にとっての成功とは何か、それを見つけることが大切だ。誰にも邪魔をさせるな」とデービス。故障や病気によって満足にプレーできない時期の多いキャリアを過ごしたデービスだが、それを後悔したり、失敗だと思ったりはしていないのだろう。

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