<港湾>軍港を整備 基地と共存 戦後は「平和商港への転換」 サセボのキセキ 市制施行120周年②

佐世保港にまつわる主な年表

 港口が狭く奥に広がる形状がヤツデの葉に似ていることから「葉港」と呼ばれる佐世保港。出入りできる場所が一カ所しかなく奥行きがある。周りは山に囲まれ敵艦からの攻撃や陸からの侵入に対して防衛しやすい。軍港としての好条件を兼ね備えた佐世保に明治政府は目を付けた。
 旧海軍が全国に4カ所設けた鎮守府の一つが1889(明治22)年、佐世保に開庁。それから軍港として近代的港湾の整備が本格化していく。ドックに船台、火薬庫、岸壁などが次々と建設されていった。市教委文化財課の担当者は「他の港に先駆け、かなり早い段階からコンクリートを使い岸壁やドックを造っていった」と急激に発展した様子を語る。
 旧佐世保海軍工廠(こうしょう)は鎮守府造船部として発足し後に海軍工廠に改称された。日本海に近い佐世保海軍工廠は艦船の修理艤装(ぎそう)や補給の基地としての役割が第一とされ、艦隊を編成し出撃する基地でもあった。軍港設置とともに人口は増加。1944年には28万人を超えた。そんな約60年にわたった旧海軍の軍港としての歴史は太平洋戦争の終戦により幕を閉じる。

佐世保鎮守府開庁日の佐世保港(佐世保市教委提供)

 市は旧海軍が残した土地や施設、建物を活用し産業経済振興を図る「旧軍港市転換法」の制定を目指した。同法は50年に公布施行。しかし佐世保経済が不況から息を吹き返す転機は皮肉にも「戦争」だった。
 50年に勃発した朝鮮戦争で、佐世保は米軍を中心とする連合軍の後方支援基地の役割を果たした。海軍工廠を引き継いだ佐世保船舶工業(SSK、現佐世保重工業)には米軍関係の船舶の修理が殺到。工場は活況に満ちた。
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 海を仕事場にする人々の目に港はどう映っているのか。佐世保水先区水先人会を訪ねた。「船長の助言者」という立場で操船を指揮し、安全航行を担う水先人。商船の乗組員や船長を務めた後に転身するケースが多い。全国の港を見てきた峯寛会長らは、「入り口が狭く中は広い。そして山に取り囲まれているので強風の影響を受けにくい」と佐世保港の利点を説明する。
 軍港として発展し戦後は「平和商港への転換」が図られてきた佐世保港。2015年には三浦地区に国際ターミナルビル、20年には浦頭地区に国際旅客船拠点が新設され、市民に開かれた水辺が次々と誕生している。
 一方で米海軍佐世保基地や海上自衛隊など防衛施設が主要箇所に点在。崎辺地区では自衛隊施設の整備が進んでいる。国土交通省によると全国にある993の港のうち、佐世保港の水域面積は27位。佐世保を含む旧軍港4市(横須賀、呉、舞鶴)の中ではトップだ。だが、港区内の約8割が米軍の使用が優先される制限水域に設定されている。

佐世保港に停泊した米原子力空母エンタープライズ=1968年1月19日

 米軍、海自、民間企業の施設が混在する佐世保港は今もなお「基地の街」を象徴する存在であり続けている。

 =次回のテーマは「観光」。12日掲載予定です=

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