「まさか」の戦争始まった(前編) 故郷に砲撃、自宅追われる人々 ウクライナ取材20日間

混み合うウクライナ・リビウの駅のホーム=2月28日(共同)

 「その時が来れば、武器を手に取って戦う」「いざとなれば避難する準備はできている」―。ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まる前、2月中旬に記者が市民の声を聞いて回った印象としては、男性だと前者、女性なら後者の答えが多かったように思う。そのほとんど全員が「だけどまさか、ロシアが本当に攻めてくることはないだろう」と付け加えた。そして皆、なんとか普段通りの日常生活を保とうと心がけているように見えた。

 プーチン大統領が欧米諸国を挑発し、自らの存在感を示そうというゲームに興じているにすぎない―。このような見方が、「まさか」の事態が現実になるまでの一般的な受け止め方だったはずだ。記者も同じように感じていた。ましてや首都キエフへの攻撃などあり得ない、と。

 しかし、2月24日未明、ウクライナ全土への攻撃は始まった。一日で全ての様相は一変した。次々に殺されていく市民たち。自宅を追われ、逃げ惑う人々でごった返す駅のホームで、ある女性は「もうどんなことでも起こり得る」と言った。3月4日には、彼女の故郷に立つ欧州最大級のザポロジエ原発まで砲撃を受けた。人類史上例のない稼働中原発への軍事攻撃だ。

 他国から侵略を受け、住み慣れた街がある日突然戦場になるとはどういうことなのか。その痛みは想像するのも難しい。それでも記者は、人々が今感じ、世界に向けて訴えようとしていることは何だろうかと考え必死に取材した。20日間足らずだが、現地で拾い集めた市民の声を届けたい。(共同通信=津村一史)

 ▽希望的観測

 「とりあえず数日、ウクライナ国境付近の様子をポーランド側から見てきてもらえないか」。東京本社のデスクから2月14日早朝、ローマ支局に勤務する私にメールがきた。欧米メディアがロシア侵攻が始まる「Xデー」を2月16日だと報じ緊張が高まっていた。戦争が始まれば多くの避難民が押し寄せるであろう国境検問所の現状を調べてくれという趣旨だった。慌てて飛行機のチケットを取った。

 ロシアやウクライナでの取材経験が豊富なデスクからのメールには「何もなければそれもよし。どんな形態の戦争になるのか、あるいは本当に兄弟国を攻撃するのか、何とも分からない」とも記されていた。この地域の情勢や歴史に関して門外漢の私にも、無論どうなるか分からなかった。

 ともかくポーランド南東部に飛び、メディカとコルチョバという2カ所の検問所へ行った。国境警備隊員は「交通量も人の行き来も普段と何も変わらない。サイバー攻撃とかなら分かるが、この21世紀に物理的な大規模戦争が起きるとは思えない」とリラックスした表情だった。付近にはウクライナ側から食料や日用品の買い物に来たという人もいるが、用事を済ませると徒歩でゆっくりと帰って行く。

2月16日、ポーランド側のメディカ検問所に来ていたウクライナ人男性。国境周辺に住み「日常的に両国を行き来している」。まだ検問所付近に混乱は見られない

 ポーランドのタクシー運転手ミロスワフ・ソハさん(47)は「危険な状況ではあるが、プーチンもさすがに制御不能な事態は望まないはずだ」と予想した。国境から車で約1時間のポーランドのジェシュフ空港には、米兵や装備を乗せた米軍機が連日のように到着していた。Xデーと予想された2月16日夕には幹線道路をウクライナ国境方面に向かう装甲車の長い列も見られたが、紛争の気配を感じさせるものと言えばそれぐらいだった。

 国境から約10キロのポーランド南東部プシェミシルでは、ITエンジニアのピオトル・パワヘンスキーさん(40)が「いざ戦争になれば、ウクライナから逃れてきた人々がまず来るのはここだ。何の準備もできておらず、大混乱に陥るのは目に見えている」と語ってくれた。この言葉は後に全て現実になるが、私はまだ半信半疑だった。

 同じ頃、ロシア国防省がウクライナ国境周辺に集結させていた軍部隊の一部撤収を開始したと発表した。さらにロシア外務省のザハロワ情報局長は2月16日、「米英のメディアにお願い。この後、ロシアの“侵攻”はいつなのか教えてほしい。休暇の予定を立てたいので」と、欧米メディアをやゆするような投稿をSNSにした。

 私はロシア側が流したこれらの情報を無邪気に信じ「今回はそれほど危険な仕事にはならないかもな」とのんきに思い始めていた。2月18日、メディカ国境検問所を越えてウクライナに入った。

 ▽高校生の銃撃訓練

 この時点でウクライナにいる共同通信記者は3人となった。ウィーン支局の岡田隆司(48)、ロンドン支局の伊東星華(37)の2人が既に首都キエフを拠点にしていた。私はしばらく西部リビウに滞在することにした。

ロシアによる侵攻前のリビウ駅ホーム。ほとんと人影は見当たらない=2月19日

 中世以来発展してきた古都リビウは人口70万余り。ポーランドまで車で1時間半ほどの近さで、美しい町並みは世界遺産に指定されている。ウクライナ民族主義の中心地として知られ、住民のほとんどはウクライナ語が母語とされる。ロシア語話者は少ない。

 ただ宿泊先のホテル従業員のタラスさん(28)は「メディアでは最近よく、リビウの人々はロシアを憎んでいるとかロシア語を話さないと報じられていますが、そんなことはありません。少なくとも私にとっては『どこの国の人か』というのは重要ではありません。大切なのは『どんな人か』です」と優しい口調で語ってくれた。

 ロシア侵攻の可能性は「あまりに多くの情報が飛び交っていて何を信じればいいのか分からない」と述べ、「いずれにしても、ここリビウにいれば安全ですよ」と笑顔を見せていた。

 ポーランド国境からリビウまで移動した際の車の運転手イゴルさんが「ウクライナには観光で来たの?」と聞いてきたことを思い返しても、この頃のリビウに緊迫した様子はほとんどなかったように思う。リビウ駅も列車の発着時を除き、ホームに人影はほとんど見当たらなかった。

 それでも地元自治体は市内6千カ所の避難所確保や、数カ月分の医薬品、飲料水の備蓄を進めていた。職員には銃器の取り扱いや救命措置の訓練も奨励しているとのことだった。

 リビウで一番驚いたのは、高校生を対象に銃撃訓練が行われていると知った時だ。市中心部から車で20分ほどの公立校を訪ねると、校内の地下シェルターにある射撃場で、高校1年の約40人が軍事訓練を受けていた。講師は退役軍人のセルギー・ロマニュークさん(63)。ソ連時代に原子力潜水艦の乗組員を務めた経歴を持つ。

 「自分が兵士だという自覚を持て」。ロマニュークさんの怒声が響く中、あどけない顔の少年少女が標的をめがけて次々と引き金を引いていく。ウクライナでは国土防衛について学ぶ授業が必修という。この学校では2月中旬、訓練用の銃と弾を使った銃撃の授業を開始した。親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の間で東部紛争が起きた2014年に校内の地下倉庫を避難所兼訓練場に改装。周辺の7校も訓練に使っている。

リビウの学校で訓練用の銃をかまえる生徒たち=2月21日

 ビラ・ダツキフ校長は「誰も戦争は望んでいないが、ロシアが侵攻してきたら戦わなければならない。私には子どもたちのためにあらゆる準備をしておく義務がある」と強調した。校内の廊下には東部紛争で命を落とした卒業生らの写真が飾られていた。

 2時間に及んだ訓練では、前線で使われていたという防弾チョッキやヘルメット、手りゅう弾などの詳しい説明もあった。ロマニュークさんはソ連崩壊後にウクライナが、ロシアと米英からの安全保障の約束と引き換えに核兵器を放棄したのが間違いだったと指摘。「ロシアにだまされたせいで、子どもたちが自ら身を守らなければならない事態に追い込まれている」と嘆いた。しかし生徒たちの間に不思議と悲壮感は漂っていない。

 生徒の1人ルカ・ザドビルネイ君(15)は「僕たちの愛国心は今、最大限に強まっている。勉強時間が犠牲になっても仕方ない。この危険な状況では訓練は必要だし、できることなら何でもしたい」と自らに言い聞かせるように語ってくれた。

 ▽読めない時刻表

 2月22日午後、リビウからプロペラ機でキエフに移動した。開戦2日前とは知るよしもなく、ここを拠点に東部などにも足を伸ばして取材できればいいなと考えていた。

 

開戦2日前の2月22日、8年ぶりに訪れたキエフの夜景写真

 ロシアがクリミア半島を強制編入した2014年に出張して以来、8年ぶりに訪れた首都の街並みはずいぶんと印象が違って見えた。同年のウクライナ政変の震源地となったキエフ中心部の独立広場周辺ではかつて、道路1キロ以上にわたり無数のテントが張られ、あちこちにれんがやタイヤのバリケードが作られていた。それらは跡形もなく消え去っていて、市庁舎を占拠していた迷彩服姿の男性たちの姿も見当たらない。それでも懐かしさがこみ上げて高台に上り、きれいな夜景の写真を撮った。今まさにロシア軍の標的になっていると指摘されている場所だとはとても思えなかった。

 岡田、伊東両記者と合流し、話し合った結果、私はもう一度リビウに戻ることにした。有事となれば全土で空港が閉鎖されるのは間違いない。万一の場合に多くの人々の「避難経路」になるであろう鉄道を体験的に利用しようと考えた。

 25日午前5時52分キエフ駅発の列車に乗れば、午前11時20分にリビウ駅に着く。約5時間半の長旅だが、そのまま乗車していれば国境を越えポーランド側に出ることもできる。地下鉄やバスが動かなくなることも想定し、23日にはホテルからキエフ駅まで30分ほどの道を歩き下見もした。ただ、駅の電光掲示板で行き先を確認しようとしてもウクライナの文字が読めない。英語表記もほとんどない。今回は大丈夫だが、今後いざという時に間違いなく列車に乗れるのか不安になった。

開戦前日、列車の行き先などが書かれたキエフ駅の電光掲示板=2月23日

 ▽36時間の退避行

 23日夜、キエフのレストランで、14年の出張でお世話になった通訳で日本語教師のイリーナさん(41)と再会した。8年前に比べ、かなり疲れているように見えた。新型コロナウイルスの影響でここ2年、仕事が厳しい状況が続いていたという。ロシア軍が侵攻してくるか確信が持てないようだったが「車のガソリンは満タンにしています。長距離の避難もできるように明日、車をメンテナンスに出す予定です。ネットが使えなくなることも考えて紙の地図も買っておこうと思っています」とつぶやいた。

 同時に「でも本当はキエフから離れたくない。1人暮らししているおばあちゃんは足が悪くて移動が大変だし、両親もいる。侵攻が始まればロシア軍に殺されるより、ウクライナの治安が悪くなることの方が怖い気がする。避難途中に強盗に遭う危険も高いんじゃないですか。貴重品を持ち出す人は多いでしょうし。ウクライナでは銀行の預金があまり守られてないので現金を家で保管している人も多いから…」とも漏らしていた。

 キエフを離れたくない理由はほかにもある。避難先となるであろうリビウなど西部について「みんないい人たちだとは思うけれど、文化も習慣も生活も違う。言葉も同じではないだろうし、そんな所で暮らしていけるのか分からない」と話した。夜10時ごろ、再会を約束して別れた。

 その7時間後。2月24日午前5時、私は東京本社からの連絡でロシアがウクライナへの軍事侵攻に踏み切ったことを知った。慌てふためきながら、イリーナさんは大丈夫だろうかと思い電話をかけた。すぐに声が聞こえる。「友達が起こしてくれました。本当に戦争が始まった。逃げます…」。それだけ言って電話は切れた。次に連絡が取れたのはそれから36時間以上たっていた。

 「西にやっとたどり着きました。車で2日間かかりました。どこにも止まらないで、食事もしないで、ずっと運転してきました」。メッセージの文面から、尋常じゃない憔悴が伝わってきた。

 ▽安全な場所などない

 岡田と伊東と私も、キエフからリビウに車で退避した。ミサイル攻撃が始まった首都に残って取材を続けるべきだとの考えもよぎったが、リビウでも記者としてできることはあるだろうと思った。身の安全を確保しつつ、心の余裕も少しは持って、伝えられることを見つけていこうと。

 キエフから車で19時間かけて移動し、25日朝にリビウに到着した。その日1日取材をし、古びたホテルに入って徹夜で原稿を書いていたところ、26日午前6時に空襲警報が鳴った。向かいの部屋に泊まっていた家族連れのお父さんがドアをノックし「起きなさい」と声をかけてくれた。小さな子供たちを着替えさせ、荷物をまとめながら「すぐ近くの空港が空爆されたらしい。次はわれわれだ。分かるな?」と凍り付いた表情で説明してくれる。

 同じフロアの人は皆、慌てた様子で大きな荷物を抱え、6階から地下シェルターに向かって階段を下りていった。エレベータは使えなくなっていた。ホテルの各所にはシェルターの場所を示す、セロハンテープで貼ったばかりの紙が見られた。

 近くの空港が空爆された事実はなかったようだが、地下で息を潜めている間、3日前まで滞在していたとはとても思えないほど、街の雰囲気が変わってしまったと感じた。空襲警報はその後も連日けたたましく響き、ウクライナ全土から殺到する避難民の人々の声にも圧倒され、とても全ては取材しきれないと思った。

ウクライナ・リビウの駅前で炊き出しをする人々=2月28日(共同)

 私たち自身のウクライナからの脱出経路の確保も急がなければならなかった。実際に国外退避をするかどうかは今後考えるとしても、移動手段がないことにはその判断すらできない。昼間に乗ったタクシーの運転手のつぶやきを思い出した。「2、3日のうちにリビウも攻撃され始めるだろう。この国に安全な場所なんて、もうどこにもなくなった」

 東京本社の上司は「じゃあ逃げて」と言えば、すぐに避難できると考えているようだったが(あるいは危なくなっても逃げる必要はないと考えている人もいるようだった)、キエフから退避するのにどれだけ苦労したか。そして状況は刻一刻と悪化している。

 実際、キエフを出た翌日の2月25日にはロシア軍がキエフ西側に部隊を集中し、市民の「逃走経路」を遮断。ウクライナ軍は首都周囲の3カ所の橋を爆破して抵抗していた。言葉も分からず土地勘もない自分には25日以降の脱出は不可能だったと思う。

 ▽スーツケースを捨てて

 リビウを目指したのは、ここが隣国ポーランドまで車で1時間半の場所に位置し、いざという時の「緊急避難口」になると考えていたからだ。たとえ不測の事態が起きても、北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)加盟国のポーランドに入れば安全が確保されると思っていた。

 しかし、それが甘すぎるもくろみだったことにすぐに気づいた。2月中旬にポーランドからスムーズに越えてきたメディカ検問所には、今やウクライナ中から人と車両が押し寄せ、リビウからも簡単に近づけないような大パニックに陥っていた。タクシーは国境の数十キロ手前で止められ、極寒の中を歩くしかないらしい。それ以前にリビウでタクシーや運転手の確保はほぼできなくなっていた。

 その日の渋滞度合いにもよるようだが、国境にたどり着くためには少なくとも35キロは歩かなければならないようだ。パソコンやカメラを入れたリュックを背負い、複数のスーツケースを抱えた状態で何時間かかるだろうか。退避が必要になれば選択肢はほかにない。しかし空爆が始まった時、これで果たして逃げ切れるのか。

 後に徒歩でポーランドに逃れた日本の新聞記者から聞いた話では、やはり生やさしいものではなかったようだ。道中でスーツケースなどをやむなく捨て、歩き通したまではまだよかったが、氷点下の寒空の中、越境手続きを待つために夜を徹して6時間立ち続けなければならず「地獄だった」という。リビウのホテルからポーランドに入るまで、平時なら1時間半で済むところ、30時間超を要したと振り返った。(後編につづく)

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