被爆者減る中、伝える決意 長崎の郷土史家 宮川さん 沈黙破り体験明かす

自身の被爆者手帳を手に体験を語る宮川さん=長崎市平和町、浦上キリシタン資料館

 長崎近代化遺産研究会の会長を務める郷土史家、宮川雅一さん(87)が13日、長崎市内で自身の被爆体験を講話した。これまで人前でほとんど語ってこなかったが、被爆者が減る中、伝えることを決意したという。
 被爆当時11歳、勝山国民学校5年生。爆心地から2.9キロ離れた今博多町の自宅前にいた。宮川さんの証言によると、午前11時2分。北の空がピカッと光った。家に飛び込み、目と耳をふさいで伏せるとドンと爆風が襲った。戸棚が体に落下し、広間の障子は吹き飛ばされた。家族は全員無事だった。姉はたまたま学徒動員先の浦上へ行かなかったため難を逃れた。
 6日後の玉音放送を聞いて日本が負けたと分かり、悲しくて涙を流した。兵隊たちが「ラジオで言いよるのはうそだ」と駆け回っていた。そのうち米軍が上陸するという話が耳に入った。「鬼畜米英は原爆より恐ろしい。逃げんといかん」と、家族は時津へ向かった。途中、爆心地付近を通ると、馬の遺体が腐臭を漂わせていた。
 進学や就職で全国を回ったが「長崎から遠い場所ほど薄気味悪がられた。(自身も)あまり触れてほしくなかった」と振り返る。これまで「私より大変な体験をした方がたくさんいた。話すのがおこがましいという思いだった」と明かし、今後は機会があれば語り伝えたいと語った。
 講話はNPO法人「アジェンダNOVAながさき」が主催。市民約30人が耳を傾けた。


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