ウクライナ原発への軍事攻撃が思い起こさせた「あの日」 2011年3月11日の総理番記者の記録(前編)

2011年3月11日午後、地震の揺れで騒然とする参院第1委員会室。中央下は当時の菅直人首相

 東日本大震災が起きた日、私は共同通信の総理番の当番を務めていた。翌3月12日早朝に行われた菅直人首相(当時)の東京電力福島第1原発の視察にも同行した。

 あの日から11年が過ぎた。私はこれまでに被災地での取材をしたことがなく、当時も今も現地の様子をまるで知らない。それでも今回、2011年3月11日と12日のことを総理番だった自分なりの視点で振り返ってみようと考えた。

 震災から11年の日を迎えたということもあるが、最近出張取材したウクライナが、ロシアの侵攻を受け、欧州最大級のザポロジエ原発が軍事攻撃されたり、チェルノブイリ原発で停電が起きたりと、福島第1原発事故以来の危機が懸念されていることもきっかけになった気がする。3月16日には宮城と福島で震度6強の地震があり死者も出た。震源は東日本大震災の余震域だったという。

 このような振り返りにあまり意味はないかもしれない。それでも取材メモを基に、忘れてはいけない日の断片を、私の目線で再現してみる。(共同通信=津村一史、文中の肩書は当時)

 ▽最高権力者の分単位の動静

 新聞の片隅に毎日載っている、首相動静という記事がある。総理大臣がその日1日、どこに行って、誰と会い、何をしたのか。分単位の時間とともに記録したものだ。

 2011年3月11日はこんな1日だった。

 首相動静(11日)

 【午前】6時16分、公邸で福山哲郎官房副長官、細野豪志、寺田学両首相補佐官。7時35分、国会。40分、障がい者制度改革推進本部。51分、総合海洋政策本部会合。8時11分、寺田補佐官。17分、閣議。38分、枝野幸男、福山正副官房長官、寺田補佐官。55分、参院決算委員会。11時58分、官邸。

 【午後】0時55分、国会。1時、参院決算委員会。2時56分、官邸。3時14分、緊急災害対策本部。4時12分、全閣僚出席の緊急災害対策本部。26分、福山副長官、伊藤哲朗内閣危機管理監、千代幹也内閣広報官、寺田補佐官。30分、民主党の仙谷由人代表代行、岡田克也幹事長加わる。37分、仙谷代表代行、岡田幹事長、福山副長官、千代広報官、寺田補佐官。44分、仙谷代表代行、福山副長官、千代広報官、寺田補佐官。47分、仙谷代表代行、寺田補佐官。55分、記者会見。59分、細野、寺田両補佐官。5時42分、海江田万里経済産業相加わる。44分、福山副長官加わる。6時12分、与野党党首会談。34分、中野寛成国家公安委員長、伊藤危機管理監。7時9分、全閣僚出席の原子力災害対策本部。23分、全閣僚出席の緊急災害対策本部。41分、海江田経済産業相、藤井裕久、福山両官房副長官、細野、寺田両補佐官。8時17分、海江田経済産業相、福山副長官、細野、寺田両補佐官。24分、福山副長官、細野、寺田両補佐官。

 (12日)

 【午前】0時15分、オバマ米大統領と電話会談。松本剛明外相、外務省の高橋千秋副大臣、梅本和義北米局長、福山副長官同席。40分、枝野、福山正副長官。

   ×   ×   ×

 首相動静は、報道各社を代表し、共同通信と時事通信の2社が協力し作成している。

 両社それぞれの総理番と呼ばれる若手記者が1人ずつ、その日1日の当番を務め、首相の動向を追っていく。

国会議事堂(2011年7月27日撮影)

 ▽「菅政権おわった」

 2011年3月11日午前5時ちょうどに自宅を出た。どうしてちょうどと言い切れるかというと、あの頃の私は、首相動静記事を作成する際に、正確な時間を記録していくため電波時計をつけていたからだ。常に正しい時刻を表示する腕時計を巻いた左手首を見て、メモを取るのが半ば職業的なクセになっていた。

 玄関ドアのポストから取った朝日新聞の一面トップには「首相に違法献金の疑い」との大見出しが躍っていた。菅直人首相の資金管理団体が2006年と09年に、在日韓国人系金融機関の元理事から計104万円の献金を受けていたことが分かったと記事には書かれていた。政治資金規正法は外国人からの寄付を禁じており、同種の事案が判明した前原誠司氏が外相を辞任したばかりだ。いやがおうでも緊張感が高まる。

 この日、総理番のもう一人の当番としてコンビを組むことになる時事通信記者から「菅政権おわった」と携帯メールが入った。

首相公邸(2011年1月6日撮影)

 首相公邸に着いた。公邸は、首相や官房長官らが執務する首相官邸と同じ敷地内に立つ首相の住まいだ。かつては官邸として使われていたこの建物は1929年に竣工され、改修をへて2005年から公邸として使われている。1936年の二・二六事件の舞台でもあり「犠牲者の幽霊が出る」とのうわさ話があることでも知られる。中に総理番の詰め所となっている「番小屋」と呼ばれる小部屋があるのだが、私もそこで聞こえるはずのない誰かの話し声を聞いたことが何度かある。誰も入っていないトイレの水が勝手に流れ「幽霊のしわざではないか」と、時事通信の総理番と一緒に息をのんだこともあった。

 3月11日は元々、国会で参院決算委員会が予定されていた。これに出席する首相は通常、答弁内容を確認するために早朝から公邸に側近たちを集め「勉強会」を開く。この日も午前6時から打ち合わせが行われることになっていた。

 ▽首相は少し笑みを浮かべて車に乗り込んだ

 公邸玄関の前に時事通信記者と2人で立っていると、午前5時56分に福山哲郎官房副長官がやってきた。朝日新聞を見せながら質問しようとすると、福山氏は「コンビニで見出しは見た。こんな報道やりだしたらキリがないよ。外国人かどうかなんて分からない。記事をちらっと見たが、今回の件も日本人名で献金してたんでしょ?こんなことやっていたら魔女狩りになってしまう」と述べた。

 続いて午前5時58分に1台の車がスロープを上ってきた。いつも通り、細野豪志と寺田学、2人の首相補佐官が一緒に乗っている。再び朝日新聞を見せると、寺田氏は無言のまま、細野氏は「あー、見た見た」とだけ答えて公邸に入っていった。

 「勉強会」が行われている間、実は総理番は公邸玄関から中の様子をうかがうことしかできない。建物は正面から見て、右側が首相が日常生活を送る私邸部分になっており、左側に会議などを行う「旧閣議室」がある。

 玄関から見ていて、午前6時16分に首相が右側から左側に移動していくのが見え、われわれは勉強会が始まったと判断した。

 前述の首相動静が「6時16分、公邸で福山哲郎官房副長官、細野豪志、寺田学両首相補佐官」となっているのは、この動きを受けてのことだ。福山氏が公邸に入ったのは5時56分、細野、寺田両氏は58分だが、これは彼らが到着した時間。動静はあくまで首相が「何時から誰と会ったか」を記録していくため、この場合は6時16分が開始時間となる。

 ちなみに当時の取材ノートには、「勉強会の始まりは予定の午前6時を16分過ぎていた。これまで1分程度のずれはあったが、予定時間より15分以上遅れたのは初めて」と書かれている。私が総理番になったのは2010年5月なので、理由は分からないが1年近くで初めての事態がこの日起きていたことになる。

2011年3月11日午前、閣議に臨む菅首相

 玄関から見えた首相は普段通りのダークスーツ姿だった。午前7時33分、公邸を出発した首相に「違法献金の問題が出ていますが」「外国人と知っていたのですか」と立て続けに問いかけたが、いずれも返答はなく、少し笑みを浮かべて首相は無言で車に乗り込んだ。

 午前8時55分にいざ、国会で参院決算委員会が始まってみると、首相は献金を受けた相手について「外国人とはまったく知らなかった」との答弁を繰り返した。野党側もいまいち攻め手を欠いている印象だった。先輩記者が取材相手から「とりあえず今日は辞めないみたい」との情報を取ったとのことで、早朝から続いていた緊張を少し緩めることができた。

 ▽国会議事堂へのテロか?

 午後1時からの決算委員会再開の動静を入力した後、時事通信記者と二人で議員食堂に行きゆっくり昼食を取った。「総理番なのに首相から目を離していいのか」と思われそうだが、実は国会での答弁中はあまりやることがない。決算委員会の記事は別の担当記者が書くからだ。あとは委員会が終了し首相が国会を出るときに随行して時間を記録すればいい。われわれは記者会分室という部屋に入り、「休める時に休むのも仕事」と国会中継を見ながらのんびりし始めた。

参院決算委開会中に起きた地震で、騒然とする参院第一委員会室。中央左は菅首相

 午後2時45分ごろ、突然の揺れを感じた。ぐらぐらと体が揺れる感覚が止まらず、時事通信記者に「結構大きいよこれ」と声をかけ、大慌てで荷物をまとめ、決算委員会が開かれている参院第1委員会室に戻った。すぐに止まると思っていたら揺れはひどくなる一方だ。「ドーン」という音が繰り返され、審議は中断した。警備員が「上からの落下物に気を付けてください」と大声を出す。私は、国会議事堂へのテロが起きているのだと思い、このまま建物が崩れるのではないかとの恐怖を感じた。時事通信記者もかなり怖がっている。首相は自席から上を見上げていた。片膝をついて横についている秘書官から何事か耳打ちされながら険しい表情を崩さない。午後2時50分、委員長が休憩を告げ、首相は第1委員会室を出た。

地震の揺れで騒然とする参院第1委員会室。中央は菅首相

 首相について国会内の階段を下りながら、官邸記者クラブ内にある共同通信の電話を鳴らす。「総理は委員会を出て、おそらく官邸に戻ります」と叫んだ。電話に出た先輩が「分かった」と一言受けてくれた。間もなく通常の電話は全く使えない状況に陥るのだが、この時はすぐに電話がつながった。

 首相が参院の国会玄関に到着したにもかかわらず、突然の事態に総理専用車がなかなかやってこない。国会終了はもっとずっと後の予定だったからだ。車が来るのを首相がじりじり待っているのが分かる。何度か「まだ来ないのか」と口に出し、隣のSPに「まだ揺れているか?」と問いかけた後、自分で「揺れているなあ」とつぶやいていた。総理専用車が到着したころには、国会玄関の外に各テレビ局のカメラが勢ぞろいしていた。カメラマンから「地震どうですか」と声掛けがあったが、首相は無言で車に乗り込んだ。

 ▽混乱の中での「首相動静」作成

 官邸に戻ると、エントランスにはものすごい数の記者とカメラマンが集まり始めていた。通常なら官邸に戻ったことを共同通信官邸担当チームの責任者であるキャップに報告しないといけないのだが、この時、連絡をしたのかどうか覚えていない。この時点で、一般の携帯電話はまったくの不通状態に陥っていた。総理番が共有で持っている携帯は災害用のものだが、それでもつながったりつながらなかったりという状態だった。

 「震度7」の地震が起こったということを知り、私の独断で、普段は配信していない官邸内の首相の部屋移動についても逐一、報道各社に流していくことにした。

2011年3月11日、地震発生後に開かれた緊急災害対策本部の会合であいさつする菅直人首相=首相官邸

 官邸には続々と閣僚たちが姿を見せ始めていた。共同通信の総理番は当時、私を含め4人いて、いつもは日替わりで当番を務めていたのだが、いつの間にかほかの3人も官邸エントランスに全員集まっていた。携帯電話がつながらず、パソコンも使えない。これではとても1人で動静を配信していくことはできない。役割分担を決め、私はノートへの記録に専念することにした。あとの2人が官邸を出入りする閣僚らへのぶら下がり取材や官邸記者クラブに降りたり上ったりしての連絡役を担うことにし、あとの1人が記者クラブのLANケーブルにパソコンをつなぎ首相動静を配信していくことに決めた。通常なら全て当日の当番が1人でこなさなければならない役割だが、早い段階で分担を決めたことで、あの大混乱の中、正確で詳細な首相動静を作ることができたと思う。

 正直もう詳しいことはあまり覚えていないのだが、取材ノートによると、日付が変わった2011年3月12日午前0時15分から10分間、首相とオバマ米大統領との電話会談が行われている。同席した外務省の梅本和義北米局長は普段、記者の問いかけに一切何もしゃべらないのだが、官邸を出て行く際に電話会談があったことを教えてくれたため、速報を打った。

 このころにはパソコンの通信機能が使えるようになり、総理番の災害用携帯電話もだいたいつながるようになっていた。一般の携帯はまだ厳しい状況だったもようで、私の個人の携帯にはニュースメールが何百件も受信できないままたまっていっていた。

 夜になり、翌日以降のことも考え、総理番の態勢づくりをすることにした。共同通信は4人のうち私ともう1人が官邸で寝ずの番を務め、あとの2人は先に帰宅し、12日午前7時半に出てきて交代することにした。時事通信も同様に2人を残し、2人がいったん帰宅することにした。しかし、交通機関はまひし、道路の渋滞もすごかったようで、帰宅組はそれぞれ歩いて自宅に戻ったとのことだった。

 ▽早朝、福島第1原発へ出発したヘリコプター

 官邸では枝野幸男官房長官の記者会見が断続的に行われていた。12日午前3時からの会見で、首相が同日午前6時から被災地および東京電力福島第1原発を視察することが発表された。通常であれば共同通信と時事通信の2人の記者が同行することになるが、急きょ決まったことから、ヘリコプターの座席の都合上、1人しか同行を認められないと官邸側から通知があった。

東日本大震災が発生し、記者会見する菅直人首相=2011年3月11日

 両社はやむを得ないと判断。この日当番だった時事通信の記者が2010年入社の新人であったのに対し、私が8年目だったので「記者歴の長い共同が行くべきだ」ということになった。ただ、はっきり言って、それまでの経験など何の役にも立たない現場だったと振り返って思う。ともかく12日午前5時20分ごろ、官邸報道室の職員から、そろそろヘリコプターが飛び立つ官邸屋上に上がりましょうと声掛けがあった。

 新聞紙面用にまとめて配信する首相動静記事とは別に、総理の動きを逐一配信もしているのだが、この時に送った動静では、東日本大震災という名称ではなく「東北・関東大地震」と記述した。

 午前5時半ごろ、私は官邸屋上のヘリポートに上った。とても寒い。途中で、防災服を着込みながら歩いている首相の姿が見えた。官邸エントランスで記者団のぶら下がり取材に応じてから出発するとのことで、私は視察に同行するSPたちと一緒に先に屋上で待機していた。ヘリコプターは陸上自衛隊機で、乗るのは首相のほか、班目春樹原子力安全委員会委員長、寺田学首相補佐官、2人の首相秘書官、審議官、官邸カメラマン、医務官、3人のSPと3人の自衛官、そして私の14人。

 午前6時出発の予定だったが、首相がなかなか現れない。SPがイヤホンを聞きながら「原発の避難地域が広がって協議に入ったようだ」とやりとりしていた。ようやく屋上に姿を見せた首相がヘリに乗り込んだ。

 機長がマイクを通し「菅総理おはようございます。当機はこれより福島第1原発に向けて出発いたします」とアナウンスすると、午前6時14分、ヘリコプターは官邸屋上を離陸した。私が座った最後部の席からは首相の様子がなかなか見えない。身を乗り出してのぞくと、首相はメガネをかけて手元にノートを持ち、斑目委員長とずっと何事かを話し合っている。自分でノートにいろいろと書き込んでいっているようだ。ノートは文字でびっしり埋まっていた。途中、窓から被災地の状況が分からないかと思ったのだが、普段と変わりがあるのかどうか判然としなかった。首相も外を見ることはほとんどなく、熱心に斑目委員長との協議を続けていた。同行者の1人はさすがに疲れていたのだろう、口をあけて寝ていた。自衛官が銀紙に包んだおにぎり一つとペットボトルを配ってくれ、首相は手早くそれを食べ、また協議を続けた。

 機内では携帯電話はほぼ圏外。現在のようにスマートフォンでグーグルマップを見ながら現在地を確認するといったこともできないので、私は途中途中で自衛官に今、どのあたりを飛行しているのかを教えてもらった。午前6時33分に茨城県小美玉市百里の近く、6時44分に同県日立市付近、6時51分に福島県いわき市の手前を通り過ぎた。(後編に続く)

2011年3月11日の総理番記者の記録(後編)はこちら

https://nordot.app/879701258819305472?c=39546741839462401

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