いいのを書きなよ

　「取りました」と、飾り気のないコメントがすがすがしい。映画「ドライブ・マイ・カー」が米アカデミー賞の国際長編映画賞に輝き、濱口竜介監督は授賞式のスピーチで俳優陣の名前を挙げ、「役者の力」に感謝した▲俳優に、スタッフに、家族にと、アカデミー賞の授与式では感謝の言葉が多く語られる。かつて、名も知らない昔の恩人に「ありがとう」と語り掛けた人もいる。「アパートの鍵貸します」「お熱いのがお好き」と数々の名作を残した監督、脚本家のビリー・ワイルダーのスピーチは喝采を浴びたという▲1930年代、ナチスの迫害から逃れようと欧州から米国に渡った。移民ビザをメキシコの米領事館で申請したが、必要な書類は何もそろっていない。送還されたら身に危険が迫る▲仕事を尋ねた領事館の役人に「脚本を書いている」と答えた。「いいのを書きなよ」。役人はそう言って、もらえるはずのない入国の許可証をくれた▲人生の分かれ目になった出来事から半世紀たち、ワイルダーは授賞式で述べた。「それ以来、私はいい作品を書くように努めてきた。彼のおかげで今の私がいる」▲いいのを書きなよ。誰かの一言が一生の支えになることもある。別れと出会いが交差するこの季節、肩にそっと手を置くような言葉とも出会えることを。（徹）