「失われた時間だった」元日産自動車会長カルロス・ゴーン被告の腹心、ケリー被告の3年3カ月 それでも「日産を愛している」

インタビューに答える日産自動車の元代表取締役グレゴリー・ケリー被告=2020年9月8日、東京都千代田区

 「主犯」のカルロス・ゴーン元会長(68)が海外逃亡し、1人残された日本で、無実を訴えて60回以上法廷に立った。日産自動車の元代表取締役グレゴリー・ケリー被告(65)。3月3日、東京地裁で下された審判は、執行猶予付きの一部有罪だった。4時間超に及ぶ判決言い渡しを、メモを取りながら淡々と聞いた。罪に問われたうちの大半は無罪だったが、表情はさえない。半ば“だまし討ち”のように日本で突如逮捕され、異国の地に留め置かれた3年3カ月の月日に何を思ったのか。ケリー被告が静かに日本を去ったのは、判決からわずか4日後のことだった。インタビューを通して見えた「ゴーンの右腕」と呼ばれた男の素顔とは。(共同通信=帯向琢磨)

 ▽判決に「ショックを受けました」

 
 金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の罪で懲役6月、執行猶予3年の有罪判決を受けたケリー被告は判決後、裁判所への不満をあらわにした。弁護人を通じて出したコメントにはこう書かれている。「非常に驚き、ショックを受けました。一貫して、日産の最善の利益を考え行動しており、違法行為に関与した事実は一切ありません。私は全てについて無罪です」

東京地裁に入る日産自動車の元代表取締役グレゴリー・ケリー被告(左)=2022年3月3日(代表撮影)

 翌日には全面無罪を目指して控訴した。検察側もその後、控訴し、舞台を高裁に移して法廷闘争は続く。

 ただ、執行猶予付きの判決だったためケリー被告の勾留状の効力は解かれた。控訴審では被告に出頭義務はない。既に帰国したケリー被告が再び日本に戻ってくることはないとみられる。

 ▽「来てくれないと困る」と言われ…

 

 ケリー被告がカルロス・ゴーン元会長と共に逮捕されたのは2018年11月19日。東京地検特捜部は羽田空港に降り立ったばかりの元会長に任意同行を求めた。ケリー被告は高速道路を移動中だったが、特捜部の係官に止められた。2人ともそのまま身柄を拘束された。

 頸椎狭窄症を患っていたケリー被告は翌12月に米国で手術を控えており、本来なら当時は日本にいる予定ではなかった。だが、日産側から「直接来て話してほしい。来てくれないと困る」と頼まれたという。理由はゴーン元会長の報酬に関する議論を詰めるためとされていた。来日直後の不意打ちの逮捕劇は、周到に計画されたものだった。

 逮捕容疑は、ゴーン元会長の報酬5年分を隠したというもの。しかし、ケリー被告は一貫して「報酬が減った元会長が日産を去らないように、どうすれば良いか合法的に検討していた」と供述し、否認を続けた。特捜部は、隠した報酬は別の3年分にもあったとして再逮捕。その後の18年12月21日、特捜部が事件の「本丸」としていた特別背任容疑でゴーン元会長だけが逮捕された。

 カリスマ経営者が三度逮捕されたことに、ケリー被告は驚いたという。ただ、自身は数日後に保釈された。日本で無事に手術を終え、公判に向けて準備を進める中、元会長は19年4月4日、4回目の逮捕。ケリー被告側は「公判が始まる時期がどんどん遅くなる」と不満を募らせていた。

保釈された際に変奏したカルロス・ゴーン元会長(左から3人目)=19年3月、東京拘置所

 ▽「主役」逃亡、孤独の闘いへ

 主張や証拠の整理をする公判前整理手続きが進み、初公判の期日もおおむね固まっていた19年末。元会長はレバノンに逃亡し、世界を驚かせた。

逃亡先のベイルートで記者会見するカルロス・ゴーン被告=20年1月(ゲッティ=共同)

 発覚直後、記者はケリー被告の弁護人に「(ケリー被告も逃げるという)同じリスクはなかったのか」と尋ねた。「君たち(弁護団)に迷惑が掛かるからそんなことはしないってさ」

 20年4月に始まる予定だった裁判は、大幅にずれ込んだ。検察との全面対決で膨大な審理が必要な上、ゴーン元会長の逃亡で審理予定の変更を余儀なくされたためだ。ケリー被告の孤独な闘いが始まった。

 初公判目前の同9月、記者は本人に初めてインタビューをした。ケリー被告は「コンニチハ」と気さくに部屋に入って来たのもつかの間、すぐに険しい表情に変わり、英語でこう切り出した。

 

 「突然異国で強引に捕らえられ、2年近く国外に出ることを制限され、裁判が始まってすらいないことを想像してほしい」

 主張は逮捕直後から変わらない。「日産が会社で解決すべき問題であり、犯罪ではない。100%無罪を証明できる」と意気込んだ。約30日間に及んだ東京拘置所での取り調べについて尋ねると「ほとんど文書がない中で7年前のことを思い出すよう言われ、とても興味深い経験だった」と皮肉交じりに答えた。

 「側近」「右腕」。いずれもケリー被告につきまとった枕ことばだ。だが、元会長の経営者としての手腕を評価しつつ、本人はそうした周囲の見方を嫌がった。「彼を尊敬しているが友達ではなく、ビジネスの上司だった。外出して一緒にワインを飲むこともなかった」

 ▽キーマンの証言にも淡々

 20年9月15日の初公判。ケリー被告は10分間にわたり、用意した書面を読み上げて起訴内容を否認した。一方、検察側はゴーン元会長が主犯であることを強調しつつ、ケリー被告を「元会長に確実に支払う方策を検討した」と主張し、事件に不可欠な存在だったと位置付けた。

ケリー被告の初公判が行われた東京地裁の法廷=20年9月(代表撮影)

 週2、3回のペースで進んだ公判で、ケリー被告はひたすらメモにペンを走らせた。ヤマ場となったのは、検察側と司法取引をした、事件最大のキーマンである元秘書室長の証人尋問だ。

 法廷に現れた元秘書室長は、検察側の尋問に対し、食事や野球観戦など、ケリー被告とはプライベートでも親しい関係だったと証言した。「ゴーンさんの未払い報酬の支払いを一緒に検討したことが大きかった。その中で信頼感みたいなものが醸成された」

 さらに長年にわたり秘書室長を務めることができたのはケリー被告のおかげだったとして「感謝」や「尊敬」という言葉を並べた。元秘書室長は途中で言葉を詰まらせたが、ケリー被告は目を合わせることはなく、表情が緩むこともなかった。

 ▽家族と会えず「試練」

 日産側の証人はいずれも、検察側の主張に沿った説明を続けたが、ケリー被告は弁護人に「何も根拠がないよね」と話し、その後の被告人質問では自身の反論に手応えを感じていたという。

 初公判から1年余りが経過した21年10月、最終意見陳述で「裁判所が証拠を公正に検討すれば、弁護側と同じ結論に達すると信じている」と訴え、結審した。

 判決を前に心境を尋ねたのは、今年2月下旬。無罪への自信は揺らいでいなかったが、逮捕からの日々を「家族に会えず、とにかく試練だった」と振り返った。

 最初のインタビューの時、スマートフォンを取り出して2人の孫の写真を見せてくれたのを思い出した。下の孫は、生まれてからまだ抱くこともかなっていなかった。「帰国したら家族や友人と過ごし、失われた時を取り戻したい」。穏やかな口調だった。

 ▽ゴーン元会長への感情は?

 元会長が逃亡したことをどう思うか、改めて尋ねてみた。「彼がここにいたら、私が無罪であることを証言してくれただろう。ただ彼は、自身や家族にとってベストだと思う決断をした」。最初のインタビューと同じ回答だった。

 

横浜市の日産自動車本社=2019年2月

 かつての同僚が検察と司法取引をしたことに、裏切られたとは感じなかったか、とも聞いた。ケリー被告はそれには直接答えず、「今も日産を愛している」と話した。

 3月3日の判決は「代表取締役として会社の利益を優先するべきなのに、ゴーンの利益を優先した」とし、起訴された8年分のうち1年分だけを有罪とした。ケリー被告は閉廷後に姿を現すことはなく、コメントだけを残した。

 すぐに弁護人を通じて3度目のインタビューを申し込んだ。だが「一刻も早く家族と会いたい」と断られ、間もなく米国に飛び立った。帰国後、ようやく孫との対面を果たせたという。

 ゴーン元会長の裏報酬に加担したとして逮捕され、当の本人は逃げたのに1人日本に残された。そして一部とはいえ有罪になった。本当に元会長に恨みや失望はないのだろうか―。最後まで本音はわからぬままだった。

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