「防災 考えるきっかけの日に」 普賢岳大火砕流31年 教訓語り継ぐ 雲仙復興事務所 最後の職員 丸山寛起さん(40)

「若い世代が防災を考えるきっかけの日になってほしい」と訴える丸山さん=福岡市内

 長崎県の雲仙・普賢岳の噴火災害で避難生活を経験した少年時代の記憶を原点に、国の復興事業の第一線で奮闘した男性がいる。昨年3月末で閉所した国土交通省雲仙復興事務所職員、丸山寛起さん(40)=現・九州地方整備局、福岡市在住=。「災害は生きていれば遭遇するもの。若い世代が防災を考えるきっかけの日になってほしい」。古里を離れて1年余り、次世代へ思いを託す。
 1991年6月3日。生まれ育った杉谷地区にある島原市立第四小の4年生だった。雨の中、山あいの自宅へ帰る途中、突然、空がどんよりと暗くなった。「また噴煙かな」。普賢岳が198年ぶりに噴火した90年11月以降、見慣れた日常の風景になりつつあった。
 濃い灰色の煙の塊が集落をのみ込む光景。毛布でぐるぐる巻きにされた消防団員らの姿-。夕方のニュース映像に身を硬くした。「これまでの火砕流と違う。怖いことが起こった」
 自宅近くの中尾川流域でも土石流や火砕流が頻発。こぶし大の噴石が家屋の屋根に降ってきた。「寝ている間に家が燃えて死ぬかもしれない。明日も生きていますように」。こう願い、床に就く日々が続いた。
 2年後の6月、火砕流が集落を襲った。流下は自宅の寸前で止まり、難を逃れたが、近くの家の網戸などは熱風で溶けた。翌月、避難勧告が出された。それから約9カ月間、家族5人は仮設住宅などで暮らした。最初に身を寄せた避難所の空気は張り詰めていた。近くにいた人が話し声に「うるさい」と怒り、姉が泣いた。灰色の土砂に覆われ、荒れ果てた古里を前になすすべはなかった。
 長崎大に進学し、土木工学を専攻。帰省するたび、土砂が撤去され、宅地や道路、砂防施設が姿を現す光景に目を見張った。「工事がすごく早い。国の事業はすごい」。復興事業を担うのが国交省と知り、2006年に同整備局入り。九州各地の砂防や河川事業を担った。
 19年4月、念願の雲仙復興事務所に赴任。閉所までの間、後継組織に砂防施設などの維持管理を引き継ぐ業務などに奔走した。28年間に及ぶ国直轄の復興事業の完了を見届け、昨年3月末、再び古里を離れた。「島原のために働くことができて幸せだった」
 同事務所に在籍した2年間、母校を含め三つの小学校などで講話を行った。「火山はまたいつか噴火する。経験していない世代が教訓を引き継ぎ、日頃から身を守るすべを学ぶことが大切」。噴火災害を知る防災のエキスパートはこれからも語り継ぐ。

 消防団員ら43人が犠牲となった1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流から、3日で31年。島原は祈りに包まれる。


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