「本邦史上稀に見る被害」福井地震の惨禍伝える気象台資料 1948年6月28日発生、倒壊消失「悲惨の極み」

福井地震発生後、福井県庁から南西側を撮影した写真。左手前の御本城橋を渡った先の堀の護岸は崩落している(福井地方気象台提供)

 蒸し暑い一日だった。1948年6月28日午後5時13分(当時のサマータイム、現在の同4時13分)、「ゴォー」という地鳴りとともに、福井平野を震源とする地震が襲った。マグニチュード7.1、当時の震度階級で最大の震度6。「烈震が起り激震区域は比較的小範囲に拘らず本邦地震史上稀に見る被害を生じた」(福井烈震速報)。死者3700人以上、全壊家屋約3万6千戸に上った福井地震から28日で74年となる。

 45年7月の福井空襲からわずか3年後。復興途上だった福井県福井市は全壊率が80%を超えた。中心部は火災に見舞われ、戦災から立ち直りつつあった街が、再び焼け野原になった。被害状況をまとめた新潟管区気象台の「福井烈震速報」や、中央気象台の「福井地震調査概報」が、今も福井地方気象台に保管されている。

 「家屋全壊。町の中央部消失。死体散見す。何れも道路に面した玄関に倒れている。丸岡城を認めず」。震源地付近とされる坂井市丸岡町の様子はこう記されている。家屋の倒壊率はほぼ100%で「丸岡・森田間は最も被害の程度大なる様に思われる」。

 福井市中心部は「瓦ぶきは全壊。駅前付近は倒壊消失し死屍散見」という状態。「特に映画館・劇場などが倒壊焼失した為に多数の死者を出したのは悲惨の極みであった」と伝える。

 至る所で発生した地割れや陥没、高さ50センチほどの泥水の噴出、学校や役場の全壊、堤防沈下、橋の落下、列車横転…。福井市内の水田で草取りをしていた女性が、地割れに挟まれて圧死した例もあった。あわら市北潟では「住民は津波が来襲するものと思い一時山手の方へ避難した」。

 「鉄道、道路、橋、堤防等の被害もまた甚大であり特に梅雨末期の洪水の危険期を控えて堤防の被害箇所の修理は目下の急務」。九頭竜川、日野川、足羽川の堤防の機能は著しく低下していた。地震から約1カ月後の7月24~25日に豪雨が襲い、福井市灯明寺では九頭竜川左岸堤防が決壊し、村へ濁流が流れ込んだ。「福井烈震誌」によると、浸水家屋は約7千戸、被災人口約2万8千人に上り、複合災害の様相を呈した。

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