「水は2階にいたわたしの胸まで」 大水害の発生から半世紀 濁流にのまれた街…当時の映像から学ぶ

今から50年前の7月、広島県の北部を中心に記録的な大雨による洪水や土砂災害が相次ぎ、39人が犠牲となったのをご存じでしょうか。中でも三次市では50年前のきょう(7月12日)、中心部を流れる馬洗川の堤防が決壊し、市街地が広く水没しました。RCCが取材した当時の映像とともに振り返ります。

【写真を見る】「水は2階にいたわたしの胸まで」 大水害の発生から半世紀 濁流にのまれた街…当時の映像から学ぶ

広島県北部、周囲を山々に囲まれた盆地に広がる三次市中心部。1972年7月12日、市街地のほとんどが水に浸かっていました。

50年前、街の中心を流れる馬洗川の堤防が2か所で決壊。大量の水が街の中へと流れ込んだのです。

RCCは、水害が起きた直後から現地や報道ヘリによる取材を開始。当時の被害を伝えるフィルム映像が数多く残されています。

三次河川国道事務所に残る当時の写真には、現地で取材にあたるRCCの報道車両の様子も映っています。

こちらは三次市役所。

浸水した庁舎内で職員が水に浸かりながら必死に運び出しているのは、戸籍簿です。

市役所からブロック1つ離れた場所にある「広銀通り」。

50年前は、道の両サイドに多くの店舗が連なる街のメイン通りの1つでした。当時、RCCが取材した映像に映っていた酒店を訪ねました。

北川酒店 北川富子さん
「もう50年ですか…」

― 場所は今と同じ?
「まったく一緒です。家も変わっていない」

水害が起きた日、広島市内で下宿生活をしていた北川さん。テレビに映し出された自分の実家を見て、被害を受けたことを知ったそうです。

北川富子さん
「あぁという感じでした。びっくりしました。そりゃ、びっくりしました。あぁ、三次、三次ってテレビを見てたら『あ、うちだ』って…。ショックでしたよ」

馬洗川の堤防が決壊したのは、7月12日の午前2時半ころとみられています。

街の中心部の広い範囲で浸水の深さは3メートル以上に達していました。

本多ガラス 本多良穂さん
「そこへ少しラインが残っていると思うが、鉄骨の下30センチくらいまで水が来た。裏の方から『土手が切れたぞ』という声が聞こえてから階段が1段いちだん水が増えていって…。こりゃ、まずいと。50年…。7月12日は必ず思い出す」

おこめの高橋 高橋誠さん
「一気に水かさが上がって、2階のこの家の胸まで水が…。」

「夜が明けて明るくなって、みんな、屋根に上がっていて」

当時、高校生だった高橋さん。RCCの映像を見てもらったところ、あることに気がつきました。

高橋誠さん
「今、映った黒いのが自分です。ヘルメットをかぶったような…。これが自分です。水が引き出してから(外に出た)」

「父が消防団にいて、ヘルメットを借りて、かぶっていたが、これで命拾いした。水かさが上がって、屋根に物が上がっていた。魚のトラ箱か、木の箱が頭の上に落ちてきて、ヘルメットをかぶっていたから助かった」

国は、大きな河川について100年から200年に1度程度の大雨を想定した洪水対策を進めています。しかし、完成までには多額の費用や長い時間がかかります。

三次河川国道事務所 斉藤一正副所長
「50年前の水害以降、堤防等の整備をしているが、まだ整備の途中段階。昭和47年7月と同じような雨が降った場合は氾濫の可能性もまだあるという状況」

さらに最近は、全国各地でこれまでの想定を上回る記録的な大雨が相次いで発生…。そこで国は、考えられる最大規模の雨量が降った場合の浸水想定を公表しています。

江の川流域では、1972年の大水害の1.3倍の雨量が降った場合で、三次市では街の中心部のほとんどが深さ5メートル以上浸水するほか、場所によっては深さが10メートルを超えるとされています。

斉藤一正副所長
「記録的な豪雨をよく耳にする。いつ、想定最大の大雨が起こるか…。ないとも限らない想定最大のハザードマップを作成しているので、日頃からの準備・確認が大事」

本多良穂さん
「消防団に入っていたので、これまで洪水のたびにいろんな所に出たが、やっぱり治水ってのはなかなか難しいなと」

高橋誠さん
「去年もけっこう水位が上がった。だから避難しました」

三次市の市街地を襲った大規模な水害。

当時の映像は、今のわたしたちにとっても多くの教訓を含んでいます。

© 株式会社中国放送