被爆した医師は8月6日の午後から救護にあたった… ~広島の放送局に残る映像から 原爆投下77年~

広島は、まもなく原爆投下から77年となる原爆の日(8月6日)を迎えます。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆するなど、核を巡る緊張はますます高まっています。こんな状況だからこそ、わたしたちは、これまでに取材した被爆者たちの声をお伝えします。

きょうは、自らも被爆し、傷つきながらも不眠不休で医療活動を続けた医師です。

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この映像は、原爆から2か月後、1945年10月13日に撮影された草津国民学校(現在の草津小学校)の様子です。

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この学校は、原爆で倒壊した県病院の救護所となったことから負傷者たちが次々に送られてきています。

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教室や体育館は臨時の病室となりました。

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奥の女性は、ヤケドをした腕に自分で油を塗っています。

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ヤケドの治療をしているのは、県病院の皮膚科部長・頼 武夫(らい・たけお)医師です。頼医師は、上柳町の自宅で被爆しました。

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頼 武夫 医師の長男 正夫さん 1996年
「あっ。これ、オヤジですね」

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当時、学生だった長男の正夫さんは、東練兵場で被爆。父親のいた救護所で治療を受けながら救護活動を手伝っていました。

頼 正夫さん
「うちの親父が被災したその日の様子を書いた紙が出てきましたので、ご参考になれば…」

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広島県竹原市に疎開していた家族に宛てた手紙です。

当時の頼 武夫 医師が書いた手紙(長男 正夫さんが朗読)
「昭和20年の8月6日…。『クツもない』と書いている。浴衣ひとつで、出てきたわけですから」

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当時の頼 武夫 医師が書いた手紙(長男 正夫さんが朗読)
「急報、昨朝八時半、一大閃光と共に大地震同様、家屋全壊。小生、倒れた家屋に閉じ込められ、しばらくして抜け出て。昨夕、公三も同様なれども、ともに命を全うせり。小生、これより防空救護に働く。洋服、なるだけ悪いやつ。下着類・クツが欲しい。田中氏のクツを1足寄付してもらいたい」※田中氏は 頼 武夫 医師のおじ

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頼 正夫さん
「8月6日の午後から救護していたんです。初日は浴衣だけでやっていたんじゃないですかね。寝間着だから」

正夫さんは、自分を治療してくれた看護師やそれまで元気だった人が倒れ、死んでいったのを忘れることができないと話していました。

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頼 正夫さん
「炊事の方とか、われわれを助けてくれた方々が、鼻血が出たり、食欲がなくなったりして倒れられて。それはもうショックでしたね。われわれもいずれはそうなるという考えをしていました」

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「トイレに行って、手洗いに行ったら人が亡くなっている。ちょっとどいてくださいと言っても動いてもらえずに、ちょっと押したらゴロっとひっくり返る。そういうところで亡くなっている人もいらっしゃいました」

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「今の医学だったら助かった人が、たくさんいらっしゃっただろうなという気はしていますが。親父も一所懸命、24時間の勤務だったろうと思いますけどね、よくやったなと思いますね」

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