戦後77年 民間の空襲被害者の前に「受忍論」の壁

終戦からまもなく77年を迎えるが、今も解決していない補償問題がある。この国は旧軍人・軍属、その遺族にはこれまで約60兆円を支払っているが、民間の空襲被害者には何ら手を差し伸べてこなかった。年々齢を重ねていく中、空襲被害者の焦りは募る。その一人、大阪市東住吉区の藤原まり子さん(77)は誕生直後に遭った大空襲で左足に大やけどを負い、障害が残った。「国が始めた戦争なのに謝罪すらない。私たちが死ぬのを持っているのではないか」。そこには、「戦争という非常事態の下ではみんな我慢しなければならない」という「受忍論」の高い壁があった。(新聞うずみ火 矢野宏)

藤原さんが大阪市阿倍野区昭和町の自宅で生まれたのは1945年3月13日夜。「昨年亡くなったおじいさんの生まれ変わりや」。家族や親せきの喜びもつかの間、警報が鳴り響いた。「空襲や!」。同居していた叔母らが母と藤原さんを布団ごと、庭の防空壕に運び入れた。

そこへ1発の焼夷弾が直撃、防空壕内に炎を振りまいた。「誰か助けて、中に赤ちゃんがいるの」。母は動けない身体で、懸命に助けを求めた。炎は藤原さんをくるんでいた産着に燃え移り、左足を焼いた。

父親は消火活動のため不在。たまたま、通りかかった男性が母親の叫び声を聞きつけ、防空壕に入って二人を救い出してくれた。

空襲警報が解除され、戻ってきた父親は藤原さんを抱きかかえて焼け残った病院を探し、駆け込んだ。だが十分な薬はない。医師が藤原さんの左足に赤チンをポンポンとつけると、5本の指がポロポロ落ちたという。

左足はケロイドとなり、膝と足首が曲がった。成長とともに左右の足の長さに差が出てきたため、物心ついた頃から左足を支える補装具をつけた。それを隠すため、藤原さんはいつも長ズボンをはいていた。

藤原さんが、自分の左足が他の子どもたちと違うことを意識させられたのは5歳の時だった。当時、自宅に風呂はなく、銭湯に通っていた。その日、同じ年ごろの男の子が藤原さんの左足を指さして、「ははは、変な足」と笑った。隣にいた男の子の母親はたしなめるでもなく、こう言った。「あんたもな、悪いことしたら、あんな足になるんやで」

藤原さんは「私は何も悪いことしてへん。悪いのは戦争や」と心の中で叫んだという。

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小学校に入学してから、体育は見学、運動会も見学。運動場を力強く走る同級生を見てうらやましかった。「あの空襲で死んでいた方がよかったのに……」。そう思うようになっていた。

「私のスカートがはきたい」と思うようになった中学時代

「私もスカートがはいてみたい」。藤原さんは中学2年の時、左足の膝上10センチのところで切断した。以後、「義足をはいて」の生活。歩き方がおかしいと、高校時代に男子生徒から「ひょこたん」とからかわれた。

■戦時中は補償制度

高校卒業後、洋裁学校に通った。「手に職をつけないと、将来食べていけない」という母親の思いからだ。

藤原さんは24歳で結婚。最初の女の子を授かった時、小さな足をなでながら「私の足も、こんなだったのかな」と思ったという。

「代われるものなら代わってやりたかった」と、自身を責め続けた母。藤原さんは、その母から手渡された、空襲で火傷したことを証明する2枚の診断書を今も大事に保管している。

戦時中、民間人が空襲などで死傷したり、家族を亡くしたりした場合、国が補償する法律があった。「戦時災害保護法」。軍人以外の者も戦争のために動員する総力戦体制を法的に担保するために作られた法律だった。

ところが、敗戦翌年の46年、軍国主義の温床になっていたとして軍人恩給などともに廃止された。52年4月にサンフランシスコ講和条約が発効されて日本が独立すると、日本政府は旧軍人・軍属、その遺族を救済する法律を制定。翌年には軍人恩給も復活させた。

診断書は「いずれ、民間の空襲被害者も救済してくれるはず」と信じた母親が娘に持たせた「お守り」だった。

これまでに旧軍人や軍属らに支給された総額は60兆円を超える。一方で、民間の空襲被害者への補償はない。その後、広島・長崎の被爆者、シベリア抑留者、中国残留孤児を救済する法律が制定され、ささやかとはいえ補償金が支給されている。にもかかわらず、戦後75年たっても民間の空襲被害者だけが置き去りにされているのだ。

■陳情重ねても廃案

空襲被害者たちが手をこまねいていたわけではない。

敗戦から30年近くが過ぎたころ、名古屋大空襲で顔面をえぐられる傷を負った杉山千佐子さん(2016年9月に101歳で死去)が1972年に「全国戦災傷害者連絡会」(全傷連)を結成、民間の空襲被害者への補償を国に求めて声を上げた。

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新聞記事を見た藤原さんも名古屋での集会に参加した。空襲で障害を負った人たちがたくさん集まっていた。「自分だけやないんや」と、ほっとした。

空襲被害者たちは全国各地で街頭に立った。救済する法律を作ってほしいと署名活動を行い、それを持って上京し国会議員への陳情を繰り返した。73年から89年まで、救済を求める法案が国会に提出されたが、ことごとく廃案に追い込まれた。

日本政府が補償を拒む理由は二つある。

一つは、国と雇用関係がなかったこと。

しかし、国が戦争を始めなければ一般人が被害に遭うこともなかった。ましてや、軍人でもない一般人は、危険に身を投じる対価としての給与を受け取っていない。被らなくてもいい損害を受けたのだから、真っ先に国家補償が支払われるべきではないか。同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは、民間と軍人の別なく補償しており、国籍条項の壁も設けていない。

二つ目は、「戦争損害受忍論」の押しつけだ

戦争という非常事態では、国民は等しく損害を受け入れなければならないという考え方だが、一方で旧軍人・軍属には年間1兆円の補償が支払われている。憲法14条でうたっている方の下の平等に反するのではないか。

おしゃれし歩く夢

藤原さんと最初に会ったのは2007年5月、夏を思わせる日差しが照り付ける午後だった。藤原さんら4人の空襲被害者はJR大阪駅近くの交差点付近に立ち、民間の空襲被害者の補償を盛り込んだ法律の制定を求める署名を呼びかけていた。2カ月後、4人は署名を持って上京。内閣府、厚生労働省から受け取りを拒否された。

国会にも行政にも、自分たちの声は届かない。もう裁判しかないと、藤原さんら空襲被害者は08年12月8日、国に謝罪と補償を求めて大阪地裁に提訴した。

藤原さんは第2回口頭弁論で法廷に立ち、こう訴えた。

「私は空襲の記憶はありませんが、身に降りかかった戦争の苦しみは一日も忘れたことがありません。戦争さえなかったら自分の足で歩けたのに。階段もスタスタと上り下りできたのに。素敵な洋服を着て、ハイヒールやサンダルも履けたのに。私は生まれて一度も自分の足で歩いたことがありません。一度、自分の足で歩いてみたかったです」

東京、大阪も裁判では原告敗訴となったが、二つの前進があった。

一つは、当時の国の政策によって空襲被害を大きくしたことを認めたこと。当時は「防空法」という法律があり、空襲の最中であっても避難することを禁じられていたため犠牲者が増えたと、裁判所が認定したのだ。

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二つ目は、司法ではなく、立法の場で救済を求めるように言われたこと。

判決後、超党派の国会議員連盟が発足。17年には救済法案の素案をまとめた。空襲で障害やケロイドが残った生存者に1人50万円の一時金を支給することが柱だ。国からの謝罪はない。

MBSラジオ「ニュースなラヂオ」に出演した藤原さん㊨=2020年8月

藤原さんの思いは複雑だ。「50万円では義足代にもならない。それでも……」と思い返す。「私のような悲しい思いをするような人を出してほしくない。民間人に補償を認める法律が戦争を防ぐことになれば……」

まもなく戦後77年、民間の空襲被害者を救済する法案の提出は見送られたままだ。

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