<日中国交正常化50年②> 元鎮西学院長、森泰一郎さん(78) 華僑大と交流、信頼関係築く

1980年代から中国の大学などとの交流に道を開いた森さん=諫早市内

 鎖国時代、長崎・唐人屋敷の通訳だった唐通事の子孫。そんなルーツもあり、中国・文化大革命(1966~76年)が終わった後の79年、中国を自費で回った。長崎-上海間に定期航空路線が開設した年だった。
 80年、勤務していた諫早市の鎮西学院短大が長崎ウエスレヤン短大(現・鎮西学院大)に改称し、国際化に乗り出した。本県と中国の交流が活発化したのを追い風に、85年、福建省の華僑大と提携。客員教授に迎えられた。
 日本国内の国立大でも海外の教育機関との連携はほとんどなかった時代。九州の小さな短大が中国と接点を持つのは非常に珍しかった。中国でも日本のミッションスクールの教員が「友好関係を結びたい」と言っても信じてもらえなかった。そこで、中国の教員を受け入れたり、長崎華僑の兪雲登(ゆうんと)さん(故人)に中国側との交渉を引き受けてもらったりしながら、教育交流の道を切り開いた。
 夏休みなどの長期休暇に入ると、華僑大の学生寮に住み、学生と過ごした。中国側の依頼で、中国の家庭で1週間に使う食料品購入額などの物価動向を調査した。資本主義経済の日本への興味も高かった。
 忘れられない思い出がある。83~84年頃、中国の人たちに日本製のライターを渡し、1カ月当たりの使用本数を調査していた。すると、中国の友人が「明日の朝、収監されるぞ!」と教えてくれ、急いで日本へ帰ったこともある。
 短大に交換留学制度や中国語コースなどを設け、九州各県から学生が集まるようになった。華僑大との交流は短大の知名度アップとともに、中国の人たちとの信頼関係の醸成につながった。
 2002年の四年制大学移行とともに学長に就任し、15年から学院長。18年、牧師を志して関西の大学院へ進学した。現在、在野で牧師活動を続けながら、アジアなど世界各国との共生をライフワークにする。この間、大学は米国やフィリピンなど12カ国・地域の25大学と協定・連携を結び、国際的なネットワークの礎を築くことに貢献できた。
 日本の教育機関は、米国に目が向きがちだが、中国は日本文化の根源であり、世界経済をリードしている。長崎と中国の間でこれまで蓄積してきた人脈や信頼関係を生かし、文化や教育をキーワードに向き合い、もっと大きな視野で物事を見てほしい。それが人の成長につながる。


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