<日中国交正常化50年⑥完> 中国人強制連行裁判を支援 平野伸人さん(75) 被害に寄り添い不戦誓う

高島を望む「日中友好平和不戦の碑」のそばに立つ平野さん=長崎市内

 1992年、長崎市の平和公園で、旧長崎刑務所浦上刑務支所の死刑場跡などが見つかった。この刑務支所などにいた収容者ら134人全員が長崎原爆で死亡。遺構の発見をきっかけに、中国人32人と10数人の朝鮮半島出身者が含まれていたことも分かった。
 中国から連れてこられ、県内の炭鉱で働かされた中国人約千人のうち、何らかの理由で刑務支所に収容された32人が原爆の犠牲となっていた。戦後50年を前に初めて知った事実に突き動かされて始めたのが「死者への手紙」だった。
 98年、連行されてきた中国人約400人の本籍地に手紙を出し、60人余りから返事が届いた。それ以前にも地元放送局記者が約200人に手紙を送り、12人から返信があった。手紙が届くまで、長崎に連行されたことも、原爆で死んだことも知らない遺族がいた。
 真実を伝えたい-。そんな思いから何度も中国に向かった。北京から数百キロ離れた地もあったが、探し出した元労働者や遺族の支援に動いた。
 長崎市の高島、端島(軍艦島)、西海市の崎戸の3炭鉱で働かされた元労働者と刑務支所で原爆死した人の遺族らが2003年、炭鉱を運営していた三菱マテリアル(旧三菱鉱業)などに慰謝料などを求めて長崎地裁に提訴。09年、最高裁で敗訴が確定したが、この訴訟を足掛かりに和解交渉を粘り強く続けた。
 16年、和解が成立。中国の人たちと膝を突き合わせてきたからこそ、埋もれた歴史を明らかにし、長崎と中国の関係により一層の深みと重みをもたせることができた。活動の理論的な柱は元長崎市長の本島等さんと長崎大教授の髙實康稔さん(いずれも故人)だった。本島さんとは刑務支所の遺構保存を巡って対立したが、退任後は髙實さんとともに戦争加害を真正面からとらえ、アジアとの共生を唱えた。
 和解をきっかけに県内の3炭鉱で働かされた845人の名を刻んだ碑の建立も決まった。「日中友好平和不戦の碑」-。高島を望む長崎市蚊焼町の高台に昨年11月に完成。そばには本島さんと髙實さんの功績をたたえる碑もそれぞれ建てた。
 この問題に向き合ってきた30年間を通じ、単に友好だけでなく、中国をはじめアジアの人々の視点から原爆と戦争を受け止め、その被害に寄り添う大切さを学んだ。碑という形で後世に残し、不戦を誓うことは、今だからこそ必要。どんなことがあっても戦争してはいけない、そう考える場にしたい。


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