“特別史跡への道” 出島・国史跡指定100年 『歩み』 復元整備が一区切り

出島の関連年表

 長崎市が進めている出島復元整備事業は、本土と1本の橋だけでつながる扇形の島が海に浮かんでいた、江戸時代の姿を取り戻すことが最終目標になっている。その実現はずっと先だと思われるが、これまでの着実な復元整備の歩みは、特別史跡格上げを目指すための素地となっている。
 1919(大正8)年施行の史蹟名勝天然紀念物保存法は、国が史跡などを指定して開発を制限できる国内初の法律だった。同法に基づき、22年に県内で初めて国史跡に指定されたのが、出島和蘭商館跡、高島秋帆旧宅、シーボルト宅跡(以上長崎市)、平戸和蘭商館跡(平戸市)の計4件だった。
 ただ、出島では同法による指定より前に江戸時代の姿が失われていた。明治期の中島川変流工事で北側護岸が大きく削られた上、港湾改良工事で周辺が埋め立てられて内陸化。民間の土地利用も進んでいた。
 戦後はオランダ、日本両政府の協議を経て、長崎市が主体となり公有化と復元整備に着手。1996年、15年程度の短中期計画と完全復元を目指す長期構想を盛り込んだ、復元整備計画書が策定された。これ以降、用地の買い取りと発掘、19世紀初頭の姿を目指した復元建造物の建設が急速に進展する。
 復元は国道499号に面した西側から進み、2000年にへトル部屋など5棟の第1期復元建造物が完成。第2期復元では南側護岸の石垣が顕在化され、中心的な建物であるカピタン部屋(商館長の居宅)など5棟が06年に出来上がった。第3期(16年完成)はオランダ人書記の住居だった筆者蘭人部屋など6棟を建設。出島内の西側を中心に往時の町並みがよみがえった。
 一連の工事に伴う発掘調査も進み、各時期の建物の遺構や、築造当初から幕末までの護岸の石垣、近世陶磁器を中心とする75万点以上の遺物などが出土。江戸時代以来の出島の実像を知る手がかりとなる、貴重な資料が蓄積された。
 さらに17年、出島北岸中央にある表門と、対岸の本土(江戸町)を結ぶ出島表門橋が開通。北岸は昔のままの姿とはいえないものの、実に130年ぶりに橋を渡って出島に入る形に戻った。
 特別史跡化という次のステップに進んだ出島。史跡からの格上げで国の支援が手厚くなるといった具体的なメリットはない。しかし、市出島史跡整備審議会・総括報告書作成小委員会の下川達彌委員長(活水女子大特別教授)は「特別史跡への指定で出島が国民共有の貴重な財産との意識が高まれば、完全復元に向けて民間の協力や国の後押しを得ることにも役立つ」と期待する。

◎史蹟名勝天然紀念物保存法とは

 明治維新以降、急速に進んだ資本主義化と国内の開発に伴い、史跡や名勝、記念物の破壊が問題化したことを受け1919年に施行。戦後、旧国宝保存法などとともに廃止され、現在の文化財保護法(50年施行)に統合された。


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