アントニオ猪木さん死去1カ月 「闘魂注入」の熱源に迫る 「ありがとう」とビンタ

古代ローマの闘技場史跡コロッセオを望む猪木さん。海外遠征先でも取り巻きができるほど人気を集めた=1988年、イタリア(原悦生さん提供)

 「闘魂」が燃え尽きて1カ月。アントニオ猪木さん=享年(79)=が振りまいた“発火”するほどの「元気」とは何だったのか─。横浜出身の英雄をしのぶ親近を訪ね、語録や生い立ちをひもとき、闘魂の熱源に迫った。

 「ちょっと来い」と猪木さんは、都内の自宅で看病していた弟の啓介さん(74)を病床に呼び寄せた。9月30日のこと。4日前から容体が悪化し、ボンベから酸素を吸入していた。

 「ドアを閉めろ」と求めたきり、猪木さんは夢うつつをさまよった。11人きょうだいの六男と七男。ブラジル移住から、新日本プロレス旗揚げ、政治家転身を近くで支え、苦楽を共にした2人に言葉は不要だった。

 水入らずの40分。啓介さんは入眠するのを見届けて帰宅し、猪木さんは翌朝、息を引き取った。「『ありがとう』。兄貴は最期、そう言いたかったのかな」

 「ありがとう」。それは、1998年の引退試合で「迷わず行けよ。行けば分かるさ」と自作詩「道」を独唱後、7万人の観衆に放った現役最後の言葉でもある。

 事務所によると死去10日前に猪木さんは、こう語っていた。

 「結局は『ありがとう』。この中に全部含まれている。だから『ありがとう』はいい言葉だな」

 「ありがとう」を相手からも引き出したのが、「闘魂注入」のビンタだった。

 相模原市の会社員、大槻吉明さんはその一人。15歳だった二十数年前、入魂志願の最後尾に並んだ。手前で打ち切られそうになったが、猪木さんが手招きしてくれ、念願がかなった。以来、この逸話で友人ができる。「猪木さんのおかげです」

 ビンタの原点は横浜市鶴見区の東台小学校時代。近所の仲良し8人組だった級友の山口和男さん(79)によると、猪木さんは遅刻の「常習犯」。担任教諭に廊下に立たされ、頰をたたかれて戒められたという。

 プロ野球横浜DeNAベイスターズで活躍した後藤武敏さん(42)は、現役だった5年前、横浜スタジアムの余興で猪木さんに指名されたのを思い出す。「うちわのように巨大」な平手を食らい、思わず「ありがとうございます」と両手を差し出した。

 直後の試合は代打で登場したが、併殺に倒れた。「気合が入り過ぎて前のめりになった」と懐かしむ。入場曲にしていた猪木さんの「炎のファイター」は、楽天コーチの今も闘志に“着火”する起爆剤だ。

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