忘れ音

 山際では、今時分も虫の音がかすかに聞こえることがある。「枕草子」の「あはれなるもの」の一つは〈十月ついたちのほどに、ただあるかなきかに聞きつけたるきりぎりすの声〉。「十月ついたちのほど」は、今の暦だと10月の終わり頃で、「きりぎりす」は今のコオロギを指す▲絶え絶えに鳴く虫の声を、昔の人は「忘れ音(ね)」と呼び、ゆかしさ、物寂しさを感じたらしい。〈きりぎりす忘れ音に鳴く炬燵(こたつ)かな〉芭蕉。こたつの中で、か細くコオロギが鳴いている、と▲その忘れ音もそろそろ絶える頃だろうか。きのうは二十四節気の「立冬」で、暦の上では冬に入った。朝は少し寒さを覚える「そぞろ寒(さむ)」で、昼間は過ごしやすい冬の入りだったが、気が付けば木々の葉は美しく色づき、季節は確かに移ろっている▲この時季はまた、冬支度の頃でもある。ここ何日かで、暖房器具を引っ張り出したり、冬の布団に替えたりと、うちの中に冬が訪れた人も多いだろう▲昔の人は、虫の音を話し言葉のように聞いた。例えば、コオロギの一種は「綴(つづ)れ刺せ」、つまり「衣のほころびを直しておきなさい」と人に語りかけたらしい▲私たちの生活は、物価高に拍車がかかり、“厳冬”が待つ。冬への心構えはいいかい? 忘れ音は細い声でそう言い残し、やがて消える。(徹)

© 株式会社長崎新聞社