故郷の匂い

 東京に長く住んだ人が長崎にUターンした。道端でふっと草の匂いがする。東京ではこんなこと一度もなかった。ああ、故郷に戻ってきたんだな。そう実感したと、身近に聞いたことがある。草の匂いと遠い記憶とが結び付いているのだろう▲フランスの作家プルーストの小説「失われた時を求めて」で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸すと、香りで幼い頃を思い出す場面がある。そこから、特定の匂いがした時に記憶が呼び覚まされる現象を「プルースト効果」と呼ぶ▲今頃きっと、あちらこちらでこの現象が起きている。帰省して降り立った、混み合う駅。実家の懐かしい料理。路傍の草。故郷に漂う匂いは遠い記憶を呼び起こし、いつかの自分と“再会”する人もいるだろう▲匂いはないが、その効果なら年賀状にもあるかもしれない。遠い日の情景、誰かの面影が、手にした一枚からふとよみがえる。ウサギの絵柄が刷られた切符で、昔日への小旅行をする人もいるに違いない▲詩人の工藤直子さんに「今日」という一編がある。〈ジンチョウゲが匂い/ハコベの白い花が咲いていたりすると/なんだか「よし! よし!」とうなずいて/じつに気合がはいるのである〉…▲匂いは時に、元気のもとになるらしい。健やかな一年に、と新春の風の匂いをかいでみる。(徹)

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