<名作の舞台・長崎> カズオ・イシグロ作「遠い山なみの光」 被爆地での暮らしを追想

上りのロープウエー車内から稲佐山の山頂を望む=長崎市

 長崎港に響く汽笛やハンマーの音、浜屋デパートの食堂、黒い電線が頭上をごちゃごちゃと交錯する市電の操車場-。戦後の懐かしい風景が随所によみがえる。
 長崎市出身のノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロさん(68)は5歳のとき、両親らとともに渡英。長編デビュー作となる「遠い山なみの光」(1982年)は、薄れゆく自分の中の「日本」を書き留めた作品だ。

 主人公は、終戦後、長崎から英国に渡った日本人女性。原爆の惨禍から立ち上がろうとする被爆地での暮らしを田舎町で追想している。作中では市街地を一望する稲佐山(333メートル)が象徴的に描かれ、ロープウエーも「ケーブルカー」の名称で登場する。

 運行開始は59年10月。渡英を翌春に控えたイシグロ少年は家族と一緒に乗ったそうだ。麓の淵神社駅を出発すると、斜面地にひしめく家々が眼下に見えてくる。テレビ塔がある山頂部の稲佐岳駅まで約5分間の空中散歩。絶景に胸を躍らせた楽しい思い出として少年の心に深く刻まれたのだろうか。
 ノーベル文学賞受賞翌年の2018年7月、古里から名誉県民と名誉市民の称号が贈られ、ロンドンで会見に臨んだイシグロさんは長崎への思いを口にした。
 「イタリアやフランスで急な坂を見るたび長崎を思い出す。おもちゃ屋さんの音でおじいちゃんと行った浜屋を思い出す」「私は一度も長崎を離れていない。これからも離れることはない」
 イシグロさんの創作活動の原点は紛れもなく、長崎の「記憶」。今も英国の地で望郷の念に駆られているのだろうか。市民は彼の凱旋(がいせん)を心待ちにしている。

◎カズオ・イシグロ
 1954年11月8日生まれ。海洋学者の父の仕事の関係で60年に渡英し、82年に英国籍を取得。89年に「日の名残(なご)り」で英ブッカー賞、2017年に日本出身で3人目となるノーベル文学賞を受賞。日本名は石黒一雄。


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