戦地の今 “重なる8.9” ウクライナ侵攻1年 ポーランドで支援活動、三田さん 復興した長崎 避難民の希望に

海外ボランティアを経験し、ウクライナの避難民の状況について語る三田万理子さん=長崎市、爆心地公園

 2022年8月9日。長崎が被爆77年を迎えた日、三田万理子(22)=長崎大多文化社会学部4年=はウクライナの国境に近いポーランド南東部にいた。ロシアの侵攻から逃れてきたウクライナの避難民を支援するボランティア活動をしていると、避難民の一人から声をかけられた。「きょうは長崎に原爆が落とされた日ですね」
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 20年12月、難民や外国人労働者などの国際社会問題を考え、情報発信するサークル「STARs」を友人たちと創設し、代表を務めた。4年生になる21年から休学し海外留学の予定だったが、コロナ禍で断念。東京に本部があるNGOでインターンシップとして難民支援に当たってきた。
 ロシアのウクライナ侵攻を受け、日本財団ボランティアセンター(東京)が募集したウクライナ避難民を支援する学生ボランティア(第3陣)として8月1~17日、ポーランドで活動。「自分の目で現場を知り、できることをしたい」。そんな思いからだった。
 主な活動場所はウクライナ国境から約10キロのプシェミシルにある駅。軍服姿の兵士も多く、最初は物々しい雰囲気に圧倒された。戦禍から逃れてくる人、家族の元へ帰っていく人…。さまざまな人間模様を見詰めながら、荷物の運搬や案内などを担当した。
 8月9日に声をかけてきたのはウクライナ人避難民の女性だった。海外の人が長崎原爆の日を知っていることに驚きながらも長崎から来たことを伝えた。「今どうなっているのか」。そう聞いてきた女性に、長崎大のホームページや長崎市内の美しい街並みが分かる写真を見せると「こんなにも復興しているのか。私たちにとって長崎は希望だ」と口にした。
 福岡市出身の三田だが、長崎原爆には特別な思いがある。祖父から「あの日は小倉(北九州市)にいたんだ」と聞いていた。1945年8月9日、長崎に落とされた原爆の第1目標は北九州市。人ごととは思えなかった。

現地ボランティアと打ち合わせをする三田さん(右)=ポーランド南東部プシェミシル(日本財団ボランティアセンター提供)

 ウクライナから避難してきた人たちはお年寄りや女性、子どもが多く、三田が対話した10代後半の女性は「おばあちゃんから戦争の話を聞いたことがあった。まさか自分が体験するとは」。別の10代女性に「夢」を尋ねると「ウクライナで家族と暮らすこと」と返ってきた。三田の中で78年前の長崎とウクライナの今が重なり、何げない日常の大切さを思い知った。
 ロシアのウクライナ侵攻から間もなく1年。ボランティア活動を通じて多くの人が体も心も痛めている現実を知り、日本からの支援がもっと必要だと三田は感じる。「市民や避難民、受け入れている国などにとって何が必要とされているかが報道されれば、具体的な行動に移せる人が増えるのではないか」
 変化も感じる。難民支援に後ろ向きな日本でも、自治体や企業、大学などが多くのウクライナ人避難民を受け入れ、住居や生活費を提供している。「紛争などに巻き込まれた人を受け入れる文化が根付く第一歩になってくれたら」。三田はそう願う。
 今春、大学を卒業し、東京の大学院で公衆衛生を学ぶ。今回の活動を通じて適切な保健や医療を受けられない人が多いと感じ、医療通訳を目指すことにした。「医療従事者と避難してきた人をつなげたい」。それが自分にできることだと三田は考えている。=文中敬称略=


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