希望のまち

 被爆医師・永井隆博士の原爆体験記「長崎の鐘」に博士のこんな言葉がある。「世界一の原子野、この悲しい、寂しい、物凄(ものすご)い、荒れた灰と瓦の中に踏み止まって、骨と共に泣きながら建設を始めようじゃありませんか」▲原爆で焼かれ、破壊され尽くした長崎。「75年間は草木も生えない」とさえ言われた。だが市民は焼け跡から立ち上がり、こつこつまちを再建する▲1949年に特別法「長崎国際文化都市建設法」が成立すると、都市計画に基づく整備が一気に進んだ。道路や上下水道などインフラのほか、平和公園や原爆資料館もつくられた。まちはわずか10年ほどで生まれ変わった▲ロシアのウクライナ侵攻が始まって1年。県内に避難しているウクライナ人留学生らの思いを伝える本紙の記事を読み、長崎の復興が彼らの心を励ましていると知った。うれしかった▲「長崎ができたんだ。君たちだってきっとできる」。侵攻が終わったとき、ウクライナ正教会司祭のポール・コロルークさんは、母国の人々にそう伝えるつもりだという。いつか、きっと、理不尽な戦争は終わるはず。今はそれぐらいしか掛ける言葉が見つからないのが、とても悔しい▲暗闇に差す一筋の光のような「希望のまち」であり続けること。それも長崎の役割だ、と心に留める。(潤)

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