グラマンの不気味な音 破壊された輸送船に「こんちくしょう」渡邊博至さん(90)

戦闘機の音におびえる日々を「誰にも味わわせたくない」と話す渡邊さん。1995年には記録集「硝煙の北対馬」も出版した=対馬市上対馬町

 長崎県対馬市北部の海の玄関口、比田勝港国内ターミナルがある上対馬町網代。海沿いには漁船が何隻も浮かび、ゆったりとした時が流れる。戦前から暮らす渡邊博至さん(90)には、かつてこの穏やかな地を襲った、戦争の記憶が残っている。
 網代地区から南に7キロほど離れた大増地区で生まれた。きょうだいが多く、網代地区の親戚に1歳で養子に出された。養父は20トンの船を持つ漁師だったが、1941年に太平洋戦争が始まり、やがて徴兵された。
 対馬は各地に砲台が築かれ、終戦まで島全域が要塞(ようさい)地帯だった。43年末ごろからは現在の上対馬町上空にも連合国軍の空母から、しばしば米軍機グラマンが1機か2機で飛来した。「グラマンがくるたびに、近くの防空壕(ごう)へと逃げ込んだ。(飛行音は)『ウアーン、ウアーン』と、不気味で気持ち悪い音だった」。おびえる日々は、終戦まで続いた。
 45年7月下旬。比田勝国民学校高等科2年で当時13歳、生徒会役員を務めていた。その日も朝早くから、比田勝地区の上空にグラマンが飛来した。湾の沖合には、日本海軍の4千トンほどの輸送船が停泊し、夜間の航海に備えていた。
 独特の飛行音を聞き、全校生徒は学校の裏山へ避難した。役員は学籍簿を入れた麻袋を持ち、校長と共に裏山の防空壕へ。校長は昭和天皇の御真影を、大事そうに抱えていた。
 壕でやり過ごしていると湾の方向から「ダン、ダン、ダン」という激しい銃撃音が聞こえた。後から地域の人から聞いた話によると、グラマンが輸送船に襲いかかり、海に飛び込み逃げる乗組員もいたという。
 機銃掃射で破壊された輸送船は、その後比田勝港の浅瀬に乗り上げ、戦後数年間はぼろぼろの姿をさらしていた。「今となっては哀れに思うのだろうが、当時は子どもも軍国教育を受けていた時代。輸送船を見ると『こんちくしょう』という気持ちが湧いてきた。自分も早く国のために戦いたかったから」と振り返る。
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 「戦争は人を殺し、略奪すること。自分が戦争に行かなくてよかった」。戦後はそんな思いを、かみしめるようになった。戦後50年を迎えた95年には知人ら十数人から戦争体験を聞き取り、記録集「硝煙の北対馬」を出版。妻の協力も得て1年以上かけてまとめた。
 ウクライナ侵攻のニュースをテレビで見るたび、「許せない気持ちになる」。戦闘機の音におびえた自身の幼少期と重なるからだ。「あのような思いを、今の子どもたちには味わわせたくない。戦争はしたらダメ。やっぱり、平和じゃないと」。絞り出すようにつぶやいた。

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