車いすで自立「豊かな人生」 被爆者の故渡辺千恵子さん 没後30年記念し集会

故渡辺千恵子さんの足跡や功績について語る木永氏=長崎市岡町、長崎原爆被災者協議会

 長崎原爆で下半身不随となり、車いすで核兵器廃絶を訴えた被爆者の故渡辺千恵子さん=享年(64)=の没後30年を記念した集会が5日、長崎市内であった。渡辺さんの遺品や資料を研究する長崎総合科学大の木永勝也准教授が講演。渡辺さんは原爆の後遺症に苦しみながらも、車いすで国内外に活動範囲を広げ「多くの人とつながり豊かな人生を過ごした」と紹介した。
 渡辺さんは16歳の時に学徒動員先の三菱電機製作所(爆心地から約2.5キロ)で被爆し、脊椎を骨折。10年近く自宅で寝たきりとなったが、1956年に長崎市であった第2回原水爆禁止世界大会で母親に抱えられて演説して注目を集め、93年に亡くなるまで被爆者運動をけん引した。
 同大の長崎平和文化研究所は渡辺さんのスピーチ原稿や日用品など数千点を保管。渡辺さんは「車いすの被爆者」として有名だが、木永氏によると、実際に車いすを使い始めたのは50歳前の77年ごろ。介助する母親が高齢になる中で「自立」を考えたことがきっかけで、エッセーには自らの障害を受け入れ、車いすを使うようになった心境の変化も記されている。
 77年には平和祈念式典で「平和への誓い」を読み、その後も82年の第2回国連軍縮特別総会など、国内外で核廃絶や平和を訴えた。木永氏は「渡辺さんのスピーチは『私たち』という複数形が多いと感じる。知人や友人を代表して訴えているという思いや、被爆者同士の連帯の表れではないか」と語った。
 記念集会は渡辺さんが所属した「長崎原爆青年乙女の会」などが主催し、約60人が参加。渡辺さんの半生を題材にした合唱組曲「平和の旅へ」も披露された。

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