背中の景色

 湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入る。フランスの詩人バレリーの言葉という。ボートをこぐ人が見るのは通り過ぎた風景ばかりで、ボートが向かう先、未来の景色は見えていない▲詩人の言葉ほど格調高くはないが、先は読めないものだとつくづく思う。マスク着用は人それぞれの判断で-という時が来たが、今更ながら個人的な「マスク問題」に突き当たる。コロナ禍の初めに買った数箱が今も自宅の隅に眠ったままで、すっかり持て余している▲その頃はマスク不足で、店先で見つけては手に入れていたが、着けていると耳が痛くなる。やがて掛けひもが柔らかいマスクが登場し、先に買った分は出番を失う…▲「不足」のはずが、3年後には「余剰」の物と化す。背中の未来はまるで見えていなかった▲振り返れば、全世帯に配られた「アベノマスク」は大量に余り、政府は処分に手を焼いた。3年前、大阪市長が医療現場で不足する防護服の代わりに雨がっぱを募ったが、集まりすぎて持て余した。はやる気持ち、勇み足は時に「余剰」を生む▲3年前、手作りマスクを地域のお年寄りに配る動きが盛んだった。雨がっぱもそうだが、不足は「余剰」だけでなく「心遣い」も呼び寄せた。小舟から見た美しい景色をいま一度、思い起こす。(徹)

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