「絶望乗り越え今を生きる」 宮城・女川出身 鈴木さん(20) 家族4人が犠牲、人とのつながり支えに

東日本大震災で亡くなった祖父母との思い出を語る鈴木さん=長崎市、長崎大文教キャンパス

 古里の宮城県女川町は山に囲まれた海沿いの町で、雰囲気が長崎に似ている。長崎大2年、鈴木翔さん(20)は小学2年の時、震災で曽祖父母と祖父母4人を失った。あれから12年。つらい記憶を抱えながら、家族への感謝の気持ちを胸に、今を生きている。東日本大震災から11日で12年。

■流れ込む濁流
 その日は雪だった。終業式の後、大掃除を終えて早めに下校。友だちと遊ぼうとしていた時だった。突然襲った大きな横揺れ。地面が割れ、友だちが泣き出した。どうしよう…。事態がのみ込めず、鈴木さんは十字路で立ち尽くした。
 家に戻り、母と2人の妹と合流。母の運転する車で避難する際、誰かが叫んだ。「津波だ!」。すぐに茶色の濁流が流れ込み、無我夢中で高台へ逃げた。車中泊した夜、テレビから流れるのは海が火をまとう映像。空を仰ぐと星が輝いていた。現実との落差に、心の整理がつかなかった。
 自宅は浸水を免れたものの、数日間は物が散乱した屋内の片付けに追われた。当時不在だった父と父方の祖父母は無事だったが、曽祖父母と母方の祖父、早坂信夫さん=当時(61)=の3人が津波にのみ込まれ遺体で発見された。祖母和子さん=同(57)=は最後まで見つからなかった。和子さんの死を受け入れられなかった母と毎日、遺体安置所へ足を運んだ。
 町は荒廃し、生活排水や遺体の匂いが充満。幼心に元に戻るとはみじんも思えなかった。絶望感を和らげてくれたのが人とのつながりだった。自衛隊員からの配給や、近所のおばあさんがくれたおにぎりの味は一生忘れられない。

■感謝かみしめ
 町は少しずつ復興したが、記憶の中の古里とは別の姿になることに割り切れない思いもあった。中学2年の時、オーストラリア・メルボルンで震災の体験を発表する機会があり、「広い世界を見た」。高校1年時には米国に行き、同年代の少年たちが銃や麻薬を使う社会に衝撃を受けた。
 もっと世界のことを知るため、長崎大多文化社会学部へ進学。現在、移民、難民問題に取り組む学生団体「STARs」の代表を務める。震災で人とのつながりの大切さを学んだことが、今の活動につながっている。
 高校まで3.11は毎年、家族と海にお参りに行っていた。今年は長崎で、家族への感謝の思いをかみしめるつもりだ。「一生懸命勉強して、自分がしたいことやできることをするのが恩返し」。過去を乗り越え、鈴木さんは未来へ歩む。


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