「あの子、すごいな」新弟子検査から親方衆を驚かせた天才力士、豊ノ島 どん底から這い上がった小兵の知られざる魅力と、踏み出した新天地

2010年大相撲九州場所の優勝決定戦で敗れたものの、観客の拍手に送られて花道を引き揚げる豊ノ島=福岡国際センター

 大相撲の醍醐味の一つに「小よく大を制す」がある。小兵力士が身長や体重の大きな差を克服して長身、巨漢の力士に勝つことだ。この言葉を約18年間にわたって体現してきた力士が元関脇豊ノ島。全盛時は168センチ、155キロ。体重こそ幕内平均に近いものの、身長の低さをものともせず、幕内で長く活躍した。三役在位13場所で三賞10度の名力士。最大の長所は、小兵ながら真っ向から勝負に挑む姿勢と、独特の「感覚」。今年1月、日本相撲協会を退職し、タレントとして新たな土俵へ旅立った豊ノ島の知られざる魅力を紹介する。(共同通信=田井弘幸)

インタビューに応じる豊ノ島さん=2月、東京都内 (2)

 ▽新弟子検査会場のあちこちで「あの子、すごいな…」
 私が初めて豊ノ島を取材したのは、2002年1月7日。「第2新弟子検査」が行われた東京・両国国技館だった。
 従来の新弟子検査は体格基準で173センチ、75キロ以上が必須だったが、体の小さな入門希望者に門戸を広げる目的で2001年に第2検査が導入された(12年に廃止)。体格基準を167センチ、67キロ以上に緩和させる代わりに、8項目の運動能力テストで一定の成績をクリアすれば合格となる。当時18歳の本名梶原大樹は、ここで圧倒的な存在感を発揮した。
 169センチ、118キロで体格検査をパスすると、運動テストで躍動。ハンドボール投げは美しいフォームで軌道を描き、反復横跳びや50メートル走、シャトルランなどでは他を圧倒。力士志望者とは思えない俊敏さだった。現場に立ち会った九重親方(元横綱千代の富士)ら日本相撲協会幹部の前で類いまれな運動神経を披露し、会場のあちこちから「あの子、すごいな…」との声が漏れた。協会関係者によると、豊ノ島が記録したテストの数値は長くトップを維持していたという。
 高知・宿毛高3年で国体団体優勝メンバーだったことは知っていたが、私もその身のこなしに驚かされた。両サイドに赤色ラインが入った黒の半ズボンに白のTシャツ姿。ぶっちぎりで合格後、涼しい顔で汗をぬぐう梶原少年は報道陣に囲まれると、堂々とこう語った。「第2検査という制度を設けていただき、感謝している。体が小さくても強くなれることを自分が示したい」。新弟子当時からコメント力もなかなかのものだった。

2002年5月の夏場所、序二段優勝決定戦で琴菊次(右、後の大関琴奨菊)を下手投げで破る豊ノ島(当時は梶原)=両国国技館

 ▽大男をなぎ倒す極意は「ノープラン」
 2002年初場所で初土俵を踏み、序ノ口、序二段で連続優勝。約2年半で新十両に昇進し、「第2検査」出身初の関取となった。その十両を2場所で通過すると、あっという間に幕内上位常連へと成長する。興味深かったのは、彼の相撲のスタイルだ。小兵力士が本来やるべき取り口とは真逆。立ち合いで意表を突いた変化などの奇襲を用いず、正面から胸で当たる。前まわしを引いて食い下がらず左半身が主流。何人もの対戦相手が「本当に不思議な力士だ」と舌を巻いていた。
 特に観客を沸かせたのは、身長が30センチ以上も高い大関琴欧洲との取組だった。2メートルを超すブルガリア出身の大男に対し、左をがばっと差す。肩越しの右上手をつかむ相手にも構わず、左脚を跳ねあげながらの左すくい投げや左下手投げ。真っ逆さまになぎ倒す場面は痛快だった。琴欧洲とは幕内通算15勝15敗と互角の勝負。今だから明かせるその極意を尋ねると、軽くいなされた。「ノープラン。左を差して、投げたら食うよと。自分は全て感覚でやっていた。とりあえず気持ち良く相撲を取ること。自分でいうのも恥ずかしいけど、天才的だったかもしれない」
 本人が自覚する通り、まさに天才肌の男だった。ほとんどの力士は対戦相手の特徴を動画などで細かくチェックするが、豊ノ島は違った。「誰がどっち四つとか、ちゃんと覚えているかというと、そうでもない。そこまで研究していなかった。器用なのか不器用なのか、立ち合いもパターンは一つだからね」

豊ノ島が下手投げで琴欧洲を破る=2007年3月、大阪府立体育会館

 ▽力士晩年に得た、かけがえのないもの
 センスで生き抜いてきた男が、力士最終盤でかけがえのないものを得た。それは支えてくれる周囲への感謝の念だ。
 

横綱白鵬と優勝争いを演じた九州場所終盤に笑顔で引き揚げる豊ノ島=2010年11月、福岡国際センター

 当時27歳で絶頂期だった2010年九州場所。西前頭9枚目で14勝1敗の好成績を挙げ、賜杯こそ逃したものの横綱白鵬と優勝決定戦を闘った。当時、日本出身力士の優勝は5年近くも遠ざかっていた。ファンの願いを一身に背負っていた当時の心境を打ち明ける。「周りの期待が大きすぎて、13日目あたりから花道に入ると『あの土俵で一人で闘わなければならない』と思い、ものすごく孤独を感じた。そうなると『家族のため』とか『応援が力になった』とか、そんな甘っちょろい言葉ではないと、あの時は思っていた」
 しかしその考えは、土俵人生最大のピンチで変わる。2016年名古屋場所前の稽古で左アキレス腱を断裂。2場所連続全休で幕下に落ちた。妻と一人娘がいるが、関取の座を失えば毎月100万円以上あった給料はゼロになる。幕下でも思うように勝てず、転落4場所目の東19枚目で出だしから3連敗した日に現役引退を決意。師匠に意向を伝え、帰宅した夜だった。
 

家族で写真に納まる豊ノ島と妻の沙帆さん、娘の希歩ちゃん=2018年9月、東京都墨田区の時津風部屋

 長女の希歩ちゃんが、ふとつぶやいた。「お相撲、辞めないでね」。実は誰かに止めてほしいと心のどこかで思っていた時だけに、これは胸に響いた。ほぼ同時期に父の一臣さんから「もう諦めたらどうだ」と諭された際には、沙帆夫人が「お父さんがそんなことを言ってどうするんですか。絶対に関取に戻ります。信じなきゃ駄目です」と切実な口調で言い返してくれたという。翻意から約2年後に十両復帰を果たし、35歳で幕内にも返り咲いた。奇跡的な再起と言っていいだろう。
 勝負師の気質で切り替えが早く、さっぱりとした面が目立った豊ノ島にとって、力士晩年の経験は貴重だった。人の温かさを肌で感じ「結局は自分のためという気持ちでやっていたところがあった。でも大けがをして、どん底を見て、はい上がる時は一人で何もできなかった。娘が止めなかったら、妻が親父に言ってくれていなかったら、自分はあそこで終わっていた。支えが本当に大きかった。だから周囲への感謝はもち続けたい」と感慨を込める。2020年春場所では再び落ちた幕下で負け越し。もう悔いはなかった。全てを出し尽くし、引退を決断した。

断髪式で今田耕司さん(右)にはさみを入れてもらう元豊ノ島の井筒親方=2022年6月28日、両国国技館(代表撮影)

 ▽「5時55分」の土俵から無限の世界へ
 2020年4月に現役を引退し、井筒親方として時津風部屋で指導していた。ただ年寄名跡を自身で持たず、所有者から借りる状態は将来的に不安定と言えた。次の人生へ進むことは頭の片隅にあり、昨年の終わり頃にはタレント転身が具体化。「そういう世界にもともと興味があったし、相撲は外からでも発信できる」との考えがどんどん膨らみ、6月で40歳という節目も背中を押した。年明け早々に角界を去ると、しこ名の「豊ノ島」をそのまま名乗って芸能活動へと踏み出した。
 現役時代からテレビ出演等で披露していた通り、ビートたけしや白鵬らのものまねが絶妙。このものまねの能力には、豊ノ島ならではの秘密がある。現役時代、出番前の支度部屋でいろいろな力士のしぐさを凝視していた。独特の観察力と吸収力、そして高い表現力が小兵の弱点を補った。この能力は新しい世界でも必ずや生かされるはずだ。
 タレント活動に転じてからはグルメ番組などのバラエティーの他、3月の春場所ではインターネットテレビ局「AbemaTV」で解説者を務め、大相撲関連のトークイベントもこなした。頭の回転の速さを生かした話術は健在だ。土俵との縁は一生消えないだろう。

インタビューに応じる豊ノ島さん=2月、東京都内

 さらに本業とは別に、故郷の高知県宿毛市と「ダブル成人式」企画も進めている。40歳の男女を対象にしたもので「20歳で成人式があって、60歳には還暦がある。人生で一つの形を築く40歳には何もない。その年代が集まれば化学反応を起こせる」と狙いを説明した。
 豊ノ島には大切にしてきた言葉がある。力士になる時、実家で豆腐店を営む父に言われたことだ。「5時55分に相撲を取る男になれ」―。結びの一番の頃合いを指し、実際に何度も取った。新たな道へと踏み出した今、活躍できる時間帯やステージは無限に広がっている。

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