「小さな声であっても発信続けたい」 さだまさしさん提唱のナガサキピースミュージアム20周年

海側から見たナガサキピースミュージアム。屋外に五線譜を模したモニュメントが立つ

 長崎市出身のシンガー・ソングライター、さだまさし(71)の提唱で2003年開館した「ナガサキピースミュージアム」(同市松が枝町)が19日、20周年を迎えた。さだが1995年に発足させた募金運動「ナガサキピーススフィア貝の火運動」(2002年にNPO法人化)により、建設が実現。開館後は同法人が運営し、300余りの企画展を開催するなど、活発な活動を展開してきた。市民が主体となり、被爆地から「平和への願い」を発信してきた歩みを振り返る。
■ 胎 動
 「政治や思想の枠を超え、これからの50年、100年に向けて市民運動を展開したい」
 被爆50年の1995年8月、当時「貝の火」運動と銘打った企画を発表した同市での会見で、さだはこう述べた。当初は巨大な世界地図に紛争地域を赤い光で表示し、赤い色が消えることを願うモニュメントを建設する構想だった。
 モニュメントの名称は「ピース・スフィア(平和な球体)」。「貝の火」は、優しさや慈しみの大切さを描いた宮沢賢治の童話の題名に由来している。どちらも「地球の平和」をイメージし、命名された。
 90年代、被爆地長崎では、原爆の記憶の風化や団体主導型の平和運動の退潮が懸念される中で、平和の訴えに広範な参加を促す市民主導型の多様な取り組みが相次いだ。さだも、世界の紛争を紹介しながら、子どもの笑顔や自然、音楽などを通して、平和の素晴らしさを身近な形で伝える施設を構想。その理念は現在まで継承されている。
 95年から募金活動が開始。県内では官民がこれに協力し、県は建設地として県有地である松が枝埠頭(ふとう)の一角の無償貸与を決定。モニュメント建設の計画はその後、曲折を経て、現在の平和発信施設「ピースミュージアム」の建設計画になっていく。
 さだは全国各地でのコンサートや、長崎市の稲佐山で毎年8月6日に開いていた無料の平和コンサート「夏・長崎から」の会場などで募金を呼びかけ。活動には、全国のファンがボランティアとして参加した。2億円を目標に進められた募金は、8年間で約1億円に到達。2002年起工にこぎ着けた。
■ 開 館
 さだの幅広い人脈から、計画の趣旨に賛同した多くの著名人が協力。建物の設計は建築家の古市徹雄、照明は照明デザイナー石井幹子、屋外のモニュメントはデザイナーの福田繁雄が担当。名誉館長には画家・グラフィックデザイナーの原田泰治(昨年3月死去)が就き、03年4月19日の開館を迎えた。
 ミュージアムは鉄筋2階建て、建築面積約82平方メートル。国道に面した入り口側は箱型の外観。海側に三角形の建物がつながり、屋外の庭に五線譜を模した高さ9メートルのモニュメントがそびえている。
 展示室では「文化的側面から平和を考える」として開館以来、NPO法人「ナガサキピーススフィア貝の火運動」の自主企画や、外部の持ち込み企画による展示を、ほぼ途切れることなく開催。使用料、入場料はいずれも無料で、今では自由な発信の場として定着している。
 23日まで開催中の開館20周年企画展では、通算304回に上る企画展示のチラシを一堂に並べている。同法人によると、企画展示のテーマは▽絵画、写真など「文化」83回▽「原爆・核兵器・戦争」79回▽商業、観光、建築など「産業」46回▽環境、動植物など「自然」39回-など。自主企画の一部は館外での展示も行ってきた。
■ 活 動
 ミュージアムを拠点に、同法人は平和に関するイベント開催や、募金支援の取り組みも積極的に展開してきた。
 開館から1年半たった04年10月、新潟中越地震が発生。同法人は、被災地の復興を支援する募金活動を開始。約半年で350万円以上が集まった。以降、募金活動は国内外の災害などのたびに実施している。
 11年の東日本大震災後は募金にとどまらず、福島第1原発事故の被災地、福島県南相馬市の小中学生を、夏休みに新上五島町へ招く取り組みを13年に開始。新型コロナ禍で3年前に中断したが、今年から再開を予定している。
 ロシアのウクライナ侵攻直後の22年3月には、ミュージアムでウクライナの人々の笑顔や町並みの写真展「ウクライナに笑顔を!」を開催。募金は県内に避難したウクライナ人の援助のため県に寄付した。
 市民に身近で手軽な平和活動も。「戦争放棄」の願いを込めたフェルト製のミニアクセサリー「せんそうほうき」の作製は、湾岸戦争が始まった1991年、東京の女性が提起した活動が起源。ミュージアム開館後、ボランティアの発案で来館者への贈り物として作るようになり、市民向けの作製会なども開いている。
 ほかにも、平和をテーマにしたコンサートの開催や、海外でボランティアを行っている団体の支援、活動に関する講演など、多様な活動を繰り広げている。
 活発な活動を支えているのは、同法人の会員と全国各地のボランティア。正会員は584人、賛助会員は32の個人・団体(10日現在)。ボランティアは95年にさだが運動を呼びかけたのに応じ、ファンがコンサート会場での募金活動に参画したのが始まり。2002年のNPO法人化後は登録ボランティアとなり、現在は約100人。各地で募金活動や平和発信の取り組みを進めている。
 貝の火運動の“成功”は、さだの次の活動にもつながった。15年、海外の邦人医師らを支援する一般財団法人「風に立つライオン基金」(東京)を設立。同基金では高校生の社会貢献を顕彰するなど、ボランティアの裾野を広げる活動も展開している。
 ミュージアム開館から20年を経て、会員やボランティアの減少、高齢化も課題となりつつある。しかし、開館当初からミュージアム運営に携わってきた同法人専務理事の増川雅一(82)は「市民がいろんな形で『平和』を考えており、その発表の場が必要とされている」と、ミュージアムの役割を強調。
 同法人の活動について「今後も、市民の立場でできることを考えていきたい。例えば、世界では核兵器がまた使われるのではないか、という不安が強まっている。具体的に何ができるか、市民がそれに気付く方法はないか。知恵を出し合っていきたい」と語った。(文中敬称略)
■ さだまさしさんがコメント寄せる
 <ナガサキピースミュージアム20周年で、さだまさしさんは長崎新聞の取材に対し、「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を提唱した経緯や、その後の活動への思い、今後の展望についてコメントを寄せた>

さだまさしさん

 1994年8月の「夏・長崎から」の前夜に長崎の新聞記者さんたちと食事会をしていたのですが、ある新聞社の記者から「長崎被爆50周年を長崎人はどのように迎えるのでしょうか?」と聞かれました。それがきっかけで、長崎から世界に向けて「平和」について発信できるミュージアムを作ることを提案しました。
 「核時計」ではありませんが、今世界でどのような紛争が起き、誰がどのように困っているかをすぐに理解できる施設を「長崎」に作りたいと思ったのでした。それも被爆地長崎をきちんと理解して来てくださる県外の方は「平和ゾーン」に行ってくださいますが、被爆地長崎を気にとめない人たちのために、平和のゾーンへの小さなお勝手口を作りたかったので、市内の「観光ゾーン」に作ることにこだわりました。
 当時の高田勇知事が極めて強い理解を示してくださり、現在の松が枝埠頭(ふとう)の土地をお貸しくださったのでした。でも当時は公衆便所があり、バスの駐車場になっていてほこりだらけで、現在のように美しい場所になるとは思わない頃でした(笑)。「しばらく我慢してください、きっときれいになります」と言われましたが、最初は信じられませんでした。
 建設資金も当初は2億円を夢見ていましたが、なかなか大変でした。でも名誉館長だった故・原田泰治さんのお力で、設計を古市徹雄先生、モニュメントを福田繁雄先生、ライトアップを石井幹子先生という超一流の皆さんが、ほぼボランティアでお引き受けくださって、思っていたよりも安く、早く完成しました。ありがたくて涙が出ました。
 小さなミュージアムですが毎月企画を立てて平和のための啓発活動を行ってきました。およそ20年の間、途切れることなく発信を続けてきたことは、とても素晴らしいと思います。
 貝の火運動も途切れることなく続いており、「平和を心から願う」人々はたくさんおられるのだと心から思います。問題は長崎という土地柄や人々の性質もあって、なかなかどんどん参加して自ら広げたり、改善していこうという方は少ないです。しかし、潜在的にはかなりたくさんの若い方が興味を持ってくださっていますので、そこに働きかけていきたいと思います。
 NPO法人の活動としても、東日本大震災被災地の福島県南相馬市の小中学生たちを長崎市内や五島列島に招待してきましたが、これも素晴らしい活動でした。もちろん、まだまだやってゆかねばならないこともありますが、かなり頑張っていると思います。
 20周年はこういう活動にとって一つのけじめになる年です。僕も「夏・長崎から」は20年でやめました。しかし、ナガサキピースミュージアムは世界で一番小さなピースミュージアムとして認められています。被爆地長崎から、たとえ小さな声であっても平和を発信し続けることができるということは、とても素晴らしいことです。
 ボランティアの高齢化については何もピースミュージアムに限ったことではありません。できるだけ若い方に参加していただくためには、より多くの広報活動を行い、メディアの皆さんにもお力をお借りして、この運動が続くように頑張りたいと思います。
 今回のコンサート(19日、長崎市で開く開館20周年記念「さだまさしコンサート」)もそういう思いが一番強いです。どうぞよろしくお願いします。

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