長崎を代表する蘭学者「志筑忠雄」 生家跡を特定 謎に包まれた生涯に迫る

志筑忠雄が生きていた頃の長崎の景観を描いた「ロシア使節レザノフ来航絵巻」(東京大史料編纂所所蔵)
大島明秀教授

 「鎖国」という言葉を生み出し、「ニュートン力学」をいち早く日本に紹介した江戸期の長崎を代表する蘭学(らんがく)者・志筑忠雄(1760~1806年)の生家があった場所を、熊本県立大文学部の大島明秀教授(47)が明らかにした。旧県庁舎にほど近い現在の長崎市万才町の一画で、細かな史料の調査を積み重ねることで位置の特定にたどり着いた。伝説的な人物として知られ謎に包まれた志筑の生涯に迫っている。

 志筑は「暦象新書」や「鎖国論」の翻訳で知られる蘭学者。商家・中野家出身で後に通詞家の養子になり、オランダ通詞の中でも身分の低い稽古通詞を務めた。著作以外に手紙や墓といった史料が残っておらず、業績のわりに活動の実態が分かっていない。
 大島教授は志筑の実家・中野家を出発点に調査を進めた。中野家は呉服商・三井越後屋の長崎での落札商人で、三井家の代理で貿易品の取引をした有力な家。当時の外浦町(現在の万才町や江戸町の一部)に屋敷があったことは知られていた。
 大島教授は近世長崎の政治、経済、文化などの基礎史料「長崎志続編」に注目。そこに収められていた「大波戸上陸道中図」に、「中野用助宅」と記されていることを発見した。用助は中野家の当主。これにより中野家が長崎奉行所西役所から数えて2軒目という一等地に屋敷を構えていたことが分かった。志筑が生きていた1804年の長崎の景観が描かれている「ロシア使節レザノフ来航絵巻」(東京大史料編纂所所蔵)でも中野家の屋敷が描かれているのが確認できた。

「ロシア使節レザノフ来航絵巻」下の中野家宅を拡大したもの。(東京大史料編纂所蔵。同所公開画像を大島明秀教授が加工)

 さらに、三井家の資料を収集・整理した公益財団法人三井文庫(東京)が所蔵する数万点の史料から、中野家に関わるものをインターネットのデータベースを利用してしらみつぶしに調査。無題で年代も記されていない1枚の見取り図を見つけた。

三井文庫から見つかった見取り図を基に、大島教授が作成した「中野家の家屋の間取りと建物配置」

 当時の正確な地図「長崎惣町絵図」(1765年ごろ作成)で中野家の屋敷の場所を見ると、その見取り図と縦横の尺が同じ敷地が描かれていることなどから、この見取り図が中野家の屋敷の間取りを記したものであると確定できた。
 見取り図には10室以上の部屋や3棟の土蔵、中庭や井戸、2階部分のある大邸宅が書かれ、住居と仕事場を兼ねていたことが分かるという。大島教授は「日常的に土蔵や作業部屋にオランダ渡りの物品が収められ、日蘭貿易関係者が始終出入りする環境だったことが推察される」と語る。

■経営戦略として

 志筑は稽古通詞を遅くとも27歳までに辞めており、その後は家にこもり蘭書の翻訳にふけったとされる。無職となった志筑がどのようにして生計を立て、蘭書を手に入れ、翻訳したのか-。そうした謎の部分についても、当時の中野家の様子が分かったことで大島教授は考察を進めている。
 志筑には4人の兄がおり、そのうちの一人は大金を出して養子に出され薬種目利という貿易に関する仕事に就いていた。「父用助は貿易関係情報を入手するために、すなわち経営戦略として息子たちを能力に応じてそれぞれの職に就けたとみられる。中野家が、通詞を辞めた志筑を養った根底にはその財力もあるが、オランダ語ができる人間を家に置いておくことの利点、やはり経営戦略としての判断があったからだろう」と分析する。
 シーボルト記念館の織田毅前館長は「志筑については実情がほとんど分からず研究が進んでいなかった。史料を丹念に調べて生家の位置が特定されたことは、その生涯を解明する上で大きな発見。中野家が経営戦略として志筑の活動を支援していたというのも重要な指摘」と話す。
 今回の大島教授の研究論文は同大文学部が3月に発行した紀要「文彩」第19号に収載している。大島教授は「志筑は当時としては飛び抜けたオランダ語の能力や国際的な感性を持ち、幕末を除く江戸時代の長崎で全国に誇れる随一の人物。今後は彼が通詞時代にしていた仕事や、蘭書の翻訳をしていた目的を明らかにしたい」と話している。


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