風呂敷で親戚の家を転々と… 孤児だった少女 「ひとりぼっちをつくらない」 被爆者を支え続けて半世紀

介護の専門家として被爆者を支え続けた女性が、この春、仕事を辞める決断をしました。かつて原爆孤児だった女性は、「誰もひとりぼっちにはしない」と60年間、働き続けました。

広島市に住む 山田寿美子 さん(79)です。介護の専門家ケアマネージャーとして、要介護認定を受けた利用者の自宅を訪問します。

山田寿美子 さん
「池上さん、おはよう」

池上さんの自宅にはもう10年近く通っています。池上さんやことし1月に亡くなった池上さんの夫が介護サービスを利用するための手続きを支援していました。

山田寿美子 さん
「1人になってだいぶん経つけど、少しは気持ちは落ち着いた?」

池上慶子 さん(93)
「落ち着かない。あちこち行かないといけないじゃん」

山田さん
「ああ、手続きでね」

池上さん
「わたしにとって、ざっくばらんにものが言える人。遠慮がなくて、身内のような感じです」

山田さんがこうした仕事を始めてから60年近くになります。

山田寿美子 さん
「この辺はこんな建物じゃなくて、平屋建ての市営住宅がずっと並んでいた」

広島市西区の福島町で仕事を始めたのは、戦後20年が経ったころ。原爆で心や体に傷を負ったままの人がまだ多くいました。

生活の相談を受ける中で原爆による心の傷に触れることもありました。男性は被爆直後、がれきの中から助けを求めてきた少女の姿に長年、苦しんでいました。

男性
「わしは何も言わずにそこを立ち去ったんよの。それが、いまだに思い出しちゃ、何で…」

多くの被爆者の心と体の苦しみを目の当たりにしてきました。何十年も経った今も、特に印象に残っている女性がいるといいます。

山田寿美子 さん
「赤ちゃんをおんぶしていて西区三篠で被爆して、爆風で赤ちゃんが吹き飛ばされて、そのまま亡くなるわけです」

女性は助かりましたが、顔にひどいやけどを負いました。探しに来た夫にも顔を分かってもらえませんでした。そのうち病気がちになり、離婚…。何度も入退院を繰り返したといいます。

山田寿美子 さん
「病棟からも嫌われるわけですよ また入院したの?って感じでね。先生が『あんたも好きで被爆したわけじゃないのに苦しいのう』って言われた言葉がすごく印象に残っている」

原爆に苦しみ続けた1人ひとりの生活を見てきましたが、実は山田さんもその1人でした。2歳のとき、西区三滝町で被爆した山田さんは、市内中心部に建物疎開に出ていた両親を原爆で失います。

孤児となり、幼いころは7歳離れたいとこと2人きりの生活を強いられました。いとこが青果店のアルバイトで稼いだお金が頼りの、心細い生活でした。

山田寿美子 さん(79)
「電気がいつも消えてね、電気代が払えないから。晴れた日は、月明りの方が明るいわけだから家から出て、外で火鉢に火をつけて煮炊きしていましたね」

小学校では給食費を払えず、身体検査の日に新しいきれいな下着を用意することもできず…。1年も経たないうちに学校に行かなくなりました。

山田寿美子 さん
「親なし子だとか言われたりして石を投げられたりしましたし。それこそ夏休みの宿題とか誰も見てくれるわけでないし」

小学3年生のころから山田さんは親類の家で暮らすことになります。風呂敷を持って転々とする親類の家に居場所はなく、わら屋根の倉庫で暮らしたり、廊下の角に敷いた風呂敷の上で着替えたりする肩身のせまい日々でした。

山田寿美子 さん
「親類の家に引き取られていったときの夢は今も見るんです。窓から逃げて、おじやおばたちに見つからないように逃げ回る夢を見たりするから、それはやっぱりすごく辛かったんじゃないかなと思いますね」

転機は中学生のとき、岡山県に嫁いでいた姉に引き取られたことでした。姉夫婦の支えで高校に進学し、奨学金で福祉大学に入学。卒業後は広島市の病院で医療ソーシャルワーカーとして働くようになりました。孤独だった幼いころの記憶を打ち消すように、多くの患者と密な関係を築いていきました。

山田寿美子 さん
「原爆に遭って、目の前で子どもを亡くしたり、ケロイドで体に障害を負ったり、じゅうぶん家庭の役割を果たせないという思いは、人に話したからといって決して解決できる問題ではない」

話を聞くだけでなく、利用できる制度を紹介して自立ができるよう生活の改善に努めました。病院に定年まで勤めたあと、2006年、自宅に居宅介護支援事業所を開設し、ケアマネージャーとして仕事を続けました。

自分で車を運転して利用者の自宅を訪問し、それぞれの生活に寄り添い続けましたが、去年の夏、山田さんは80歳になる前に事務所を閉じることを決断しました。

山田寿美子 さん
「がんばった。ずっと赤字で退職金もつぎ込みましたし、これはもう限界かなと能力的にも思いました」

池上さんの自宅を訪れたこの日は、ケアマネージャーとして最後の訪問の日でした。

山田寿美子 さん
「元気でいようよ」

たくさんの利用者に惜しまれながら、事業所を閉じました。

病院に勤めていたときから半世紀以上続けてきた仕事を終えたばかりの山田さん。実は、もうすでに「やりたいこと」があるといいます。かつて事務所として使っていた自宅の一室に、地域の人が集まれる場所を作ろうとしています。

山田寿美子 さん(79)
「地域の人の居場所づくりをしようかなと思ったら、地域包括の方が聞いて、来週、さっそく話に来られるそうです」

― まだまだお忙しくされますね。
「ひとりぼっちをつくらない」

原爆孤児だった自分が苦しめられた孤独をほかの誰も感じることがないように…。元気でいる限り、人とのつながりを作り続けるつもりです。

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