8歳で被ばくした母は7回流産した。核実験場とされたマーシャル諸島出身者が語った被害 サミット控える広島で訴えた「公正な世界」

 ユースサミットの仲間と、平和記念公園を見学するベネティック・カブア・マディソンさん(中央)=4月26日、広島市

 先進7カ国(G7)のメンバーの米英仏は第2次世界大戦後、世界各地で核実験を繰り返した。島や環礁が点在する太平洋地域は、その核開発競争の「舞台」の一つだ。3カ国で合わせて300回以上の実験が行われた。

 住民は土地を追われ、文化を奪われ、放射線被ばくの影響に襲われた。放射性物質で汚染された地域の一部には今も帰れない。被害の全容は明らかになっていない。

 2021年に発効した核兵器禁止条約は、被害者援助と環境の回復について規定。昨年の第1回締約国会議を経て、その原資となる基金創設に向けた検討が進む。被害者救済の機運が高まる中、G7サミット開幕を控える被爆地・広島を、米国の核実験場があったマーシャル諸島出身の2人が訪れた。「互いを理解し、核のない公正な世界を一緒に目指したい」。期待を携え初来日した2人を取材した。(共同通信記者=野口英里子)

 ▽広島原爆約7千発分の威力

 故郷のマーシャル諸島での核実験被害について講演するエベレン・レレボウさん=5月2日、広島市

 マーシャル諸島は日本から約4千㌔以上離れた、人口約4万1千人の小さな島しょ国。「『ボン』という爆音の後、あたりは真っ暗になった。どれほどの恐怖だったか、想像してみて」。5月2日、広島市内の会議室で、エベレン・レレボウさん(42)は約100人の参加者を前に母国について語り始めた。

 第2次大戦以前、日本が統治していたマーシャル諸島は戦後、米国の支配下に置かれた。米国は北西部のビキニ環礁とエニウェトク環礁から住民を強制移住させ、核実験場を設置し、1946~58年に計67回の原水爆実験を行った。ビキニ住民は今も避難生活を継続。エニウェトクには実験で生じた核廃棄物の処分場が建設された。

 67回の威力を合計すると、広島原爆約7千発分に相当するとされる。影響は実験が行われた環礁以外にも及んだ。ビキニから約180キロ離れたロンゲラップ環礁には1954年3月1日、水爆実験「ブラボー」による放射性降下物が広がった。住民82人は「死の灰」に触れ、吸い込み、やけどなどの急性障害に襲われた。

 住民らは2~3日後に米国によって別の環礁に移送され、研究対象となった。米国の「安全宣言」をもって一度は帰還を果たしたが、放射線の影響とみられる病気や流産、死産が多発。1985年、再び故郷を去った。

 82人の中に、レレボウさんの養母リジョンさんがいた。実験日に8歳を迎えたリジョンさんは生涯で7回流産し、甲状腺がんも患った。2012年に66歳で亡くなった。

 マーシャル諸島が独立する1986年、米国が1億5千万ドルを拠出する被害補償基金が創設された。だが、対象はマーシャル諸島側が訴える被害範囲に比べ限定的だった。放射能汚染された土地の除染や質の高い医療の確保といった課題も山積する。「どんな政府も、完全に私たちが経験したことに弁償できない」。レレボウさんが紹介したリジョンさんの生前の言葉が会場に重く響いた。

 マーシャル諸島のビキニ環礁で実施された水爆実験「ブラボー」の巨大なきのこ雲。オリジナルからのスキャニングだが退色が進んでいる(米国立公文書館所蔵)

 ▽母の遺志を継いで
 リジョンさんは世界を回り、被害者救済と核廃絶を訴えた。一方で、差別から守るためか、家族に直接自身の体験を語ることはなかったという。人づてに母の真実を知ったレレボウさんは、その背中を追い、運動に携わるようになった。現在、マーシャル諸島共和国の政府機関に所属し、核実験を知らない子どもや教師に教育啓発する役目を担う。

 マーシャル諸島周辺での核実験では、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」をはじめ、ビキニ環礁周辺を航行していた多くの日本籍漁船の乗組員も被ばくしたとされる。渡航前、記者に「それぞれの物語を共有し学び合うことで、強いきずなを結ぶことができる」と来日への期待を語ったレレボウさん。今回の来日では、高知県にいる元乗組員や、東京の「都立第五福竜丸展示館」も訪ねた。

 レレボウさんを招いた明星大の竹峰誠一郎教授は「G7は核に安全保障を頼る国々の集まり。サミットでロシアや北朝鮮の問題は議論しても、マーシャルの被害は話題にならないだろう。彼女に核問題の現場から語ってもらい、顔の見える関係を築いてほしかった」と、その狙いを語る。

 レレボウさんは、15歳のときに広島で被爆した切明千枝子さん(93)とも面会した。何人もの下級生の遺体を火葬したこと、被ばくの影響を恐れて妊娠をためらったこと、85歳になるまでつらい記憶にふたをしたこと…。母の姿を思い起こしながら約2時間、証言に耳を傾けた。別れ際、レレボウさんは切明さんの手を握り「帰国したら、ヒロシマのことを伝える。一緒に頑張りましょう」と語りかけた。

 被爆者の切明千枝子さんの手を握るエベレン・レレボウさん=5月4日、広島市

 日本での約2週間の旅を終え「マーシャルと日本は、多くの苦しみを共有していると実感した。両国の子どもたちが互いの国を行き来するプログラムを実現させたい」と展望を語った。

 ▽私たちの手で核廃絶を
 レレボウさんが来日する数日前、祖母がビキニ環礁出身のベネティック・カブア・マディソンさん(27)も初めて広島の地を踏んだ。G7サミットに合わせて4月25~27日に企画された「ユースサミット」に参加するためだ。

 6歳のときに移住した米国の同胞コミュニティーで、母国の文化と歴史の継承に取り組む。昨年は核拡散防止条約(NPT)再検討会議や核兵器禁止条約締約国会議に参加し、核実験の影響は今も続いていると指摘した。

 その際、日本から渡航していた被爆者と交流。日本の若者と協力し、核廃絶の運動を引き継いでいってほしいと期待をかけられた。原爆や核実験の直接の体験者が少なくなる中、「私たちの手で教訓を次世代に伝えていかなければいけない」と確信した。関係構築の機会を探っていたところ、G7サミットという好機が巡ってきた。

 ユースサミットにはG7を中心に世界から約50人の若者が集まった。その中には、核禁止条約締約国会議に参加した日本の若者もいた。3日間、共に核問題を学び、マディソンさん自身が太平洋地域の「核の遺産」について講義する時間もあった。被爆者の証言を聞き、原爆資料館を見学するなど自らも「ヒロシマ」を学んだ。

 平和記念公園を巡りながら「ここで失われた命と、核実験の悲劇に遭った人々のことを思うと心が動いた」というマディソンさん。「日本と非常に強いつながりを感じた。関係を切らすことなく、今後、両国の若者が交流し、核廃絶の方策を話し合える場所をつくりたい」と語り、広島を後にした。

 平和記念公園を訪れたベネティック・カブア・マディソンさん=4月26日、広島市

 ▽「正義」に思いを巡らせて
 広島や長崎の原爆とは別の視点から核問題を見てきたマーシャル諸島出身の2人は、G7サミットや核軍縮の行方についてどう考えているのか。尋ねると、大国への不信感がにじむ言葉が返ってきた。

 マディソンさんは被爆地でのサミット開催について「まちは復興したが、その背後には悲惨な歴史があり、今も苦しむ人がいる。そこに大国がやって来て経済やエネルギーなど彼らの問題を議論することに不快感を覚える」と率直に話した。「彼らが核軍縮を議論したとしても、果たして行動に移すだろうか。言葉ではなく、行動を求めたい」

 「サミットがあることを知らなかった」と笑ったレレボウさんは、「核兵器は大国が力を誇示するための『おもちゃ』。手放したら、彼らは力を失う。彼らを止めるには、市民の手で平和を願う政治家を生み出すしかない。世紀単位の時間が必要ね」と悲観的だった。

 「ニュークリア・ジャスティス(核を巡る正義)とは何でしょうか」。レレボウさんは5月2日の講演の最後、参加者に問いかけた。「マーシャルの子どもたちの答えは『ノー・モア・ボム』。つまり、脅威にさらされない世界に生きることです。みなさんも思いを巡らせてほしい」

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