「一人一人の悲劇を知ることが重要」作家平野啓一郎さん、被爆者の証言や文学通じ核の非人道性を知ってほしい 【G7広島サミットへの望み】

 インタビューに応じる平野啓一郎さん=3月14日、東京都千代田区

 被爆2世が登場する小説「マチネの終わりに」で知られる作家平野啓一郎さんは、長崎の被爆者故林京子さんの小説など、原爆文学を通して反核の思いを強めてきた。戦争や平和を抽象論で語らずに、「一人の人間がどういう悲劇に見舞われたのかを知ることが重要だ」と話す平野さん。初の被爆地開催となる先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)を前に、私たちは何を考えるべきかを尋ねた。(共同通信=調星太)

 ▽核兵器は穏やかな生活を一瞬で奪った
 核兵器廃絶に深い関心を抱いたのは、米軍が長崎原爆の当初の投下目標としていた北九州市の出身ということが大きい。平和教育が盛んで、小学校では、米軍が天候の影響などで急きょ攻撃目標を変更したことを学んだり、広島原爆を主題にした映画を見たりした。また、米ソ冷戦構造の中にあった1980年代に少年時代を過ごし、核戦争をテーマにした映画やアニメもあって、「核兵器によって世界が全滅するかもしれない」という恐怖も感じていた。

 「マチネの終わりに」の執筆にあたり長崎を訪れ、「長崎の証言の会」の方たちから話を聞いた。長崎は静かな良い街で、被爆者は感情的に激しく核問題を訴えるのではなく、淡々と体験を語っていた。こうした穏やかな生活を営む人たちの人生を一瞬で奪ってしまうのが、核兵器の非人道性だと痛感した。

 戦争や平和を抽象的なレベルから考えてはいけない。抽象的に考えれば、いくらでも戦争を肯定する理屈をひねり出せる。広島や長崎の街に行くと、この街が一瞬にして破壊されてしまったということを、その場に立って感じさせられる。一方で、世界地図だけを見て抽象的に、「○人の犠牲は仕方がない」などと戦略的に考え出すと、選択肢として核兵器を是認するような間違った方向に考えが進んでいってしまう。実際に被爆地に足を運び、証言や文学作品に触れ、一人一人の人間がどういう悲劇に見舞われたのかを知ることが重要だ。

 ▽被爆者の人生を見つめれば反核以外に選択肢はなくなる

 平野啓一郎さん=3月14日、東京都千代田区

 小説は、ある場所に住む、具体的な人間を主人公にして物語が始まる。被爆者で作家の故林京子さんは、自身の被爆体験を記した小説「祭りの場」で原爆投下直後の街の様子を非常に克明に描き、長崎弁を話す地元の人たちの様子を生々しく表現した。また、小説「長い時間をかけた人間の経験」では、戦後被爆者たちがどのように生きてきたのかを見つめ、被爆者の間にもあった貧富の差など、見えにくい問題も克明に描いている。文学を通じて広島、長崎の被爆者の人生を見つめれば、反核の立場以外に選択肢はなくなるはずだ。

 3月に亡くなったノーベル賞作家の大江健三郎さんからも大きな影響を受けた。曖昧な関心で見ていると、核や沖縄問題を巡る大江さんの主張は、典型的な戦後の進歩的知識人の主張として受け止められ、「現実離れしている」と感じられるかもしれない。しかし、「ヒロシマ・ノート」、「沖縄ノート」を読むと、徹底した他者との対話から、自分自身のあり方を苦悩しながら考え抜く姿が伝わってくる。被爆作家のアンソロジー(選集)「何とも知れない未来に」をまとめるなど、その活動は、小説家としての仕事とも深く通じていたし、私自身も、大江さんの平和を訴える主張に強く共感している。

 ▽核の力に頼る発想は人類の堕落
 ロシアのウクライナ侵攻が続く中、G7広島サミット議長国の日本は、唯一の戦争被爆国として「核なき世界」をつくることを、表面的に取り繕うのではなく、真剣に主張すべきだ。いまだに頭の中が冷戦構造のままの人たちが核抑止論を唱えているが、核の力に頼る発想から抜け出せないのは人類の堕落だ。核に頼る秩序を再構築するのではなく、平和的な解決策を模索することが重要だ。

 昨年末、防衛費の大幅な増額が決まったが、平和構築の手段が軍事力一辺倒だと、一般市民が問題に参入することが難しく、政府間のやりとりでしか戦争を防ぐことができなくなる。安全保障を維持するためには軍事的シミュレーションを議論するだけではいけない。経済的交流や文化的交流など外国とつながるチャンネルを増やし、一般市民が関わっていく必要がある。日本を攻撃することは無意味である以上に、自国にとって損になるという状況を市民一人一人がつくることが重要だ。交流を途切れさせてはいけない。

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ひらの・けいいちろう 1975年生まれ、北九州市出身。「日蝕」で芥川賞。「ある男」「本心」など著作多数。

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