30周年を迎えたJリーグでは様々なチームが頂点に立ってきた。
その回数がダントツで多いチームと言えば、もちろん鹿島アントラーズ。今季J1でも序盤苦戦を強いられたが、5連勝で5位に浮上している。
そんな鹿島がJリーグとともに歩んだ30年間で、日本人選手に続き「チーム歴代最強の外国人選手」5名を選んでみた。
ジーコ
1953年3月3日生まれ
鹿島アントラーズ在籍:1991-1994(※住友金属時代も含む)
カシマサッカースタジアムのすぐそばに銅像が鎮座しているように、いま現在の「鹿島アントラーズ」を作り上げた創造主だ。
ブラジルでは1989年にピッチを退き、翌年からスポーツ担当大臣に就任。それだけに、1991年に住友金属と契約し、38歳で初来日を果たした際は訝しむ声もあった。
しかし、Jリーグ開幕戦で記念すべきハットトリック第1号になると、“ジーコイズム”に染まったチームはサントリーステージ(1stステージ)を制覇。
チャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗れたものの、J初年度から「強豪」としての姿を見せたことより、ホームタウンの立地に恵まれていない鹿島にとって最重要と言えるアイデンティティの確立へとつながっていった。
ジョルジーニョ
1964年8月17日生まれ
鹿島アントラーズ在籍:1995-1998
完成されたブラジル代表のレギュラー選手がJリーグに初めてやってきたケースだろう。
ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンで外国人枠の都合により出場機会を減らし、新たな挑戦として日本へ。鹿島では右サイドバックだけでなくボランチでも出場するなど、現代フットボールに通じるマルチな能力を持っていた。
そのプレーの質は圧倒的で、1996年と1998年のJリーグ、1997年にはナビスコカップと天皇杯を制するなどタイトルを総なめ。個人としても1996年、鹿島の選手として初のJリーグMVPに輝いた。
引退後、2012年には監督として鹿島を指揮。リーグ戦は11位に終わったがナビスコカップを勝ち取っている。
アルシンド
1967年10月21日生まれ
鹿島アントラーズ在籍:1993-1994
天才ジーコを擁した初期の鹿島において、エースストライカーとして活躍したのがアルシンド。
フラメンゴやサンパウロ、グレミオといったブラジルのトップクラブでプレーしていたが、ジーコの誘いを受けて25歳で来日した。
Jリーグ開幕戦でさっそく2点を決めるなど、その後も実力をいかんなく発揮。鹿島での2年間では71試合に出場し50ゴールを記録している。
契約交渉がもつれ2年でライバルのヴェルディ川崎へ移籍してしまったが、CMでも大人気だったブラジル人FWは、Jリーグの歴史を語るうえで欠かせないスター選手の一人だ。
レオナルド
1969年9月5日生まれ
鹿島アントラーズ在籍:1994-1996
Jリーグで「貴公子」と言えば、後にも先にもレオナルドをおいて他にはいない。
1994年のアメリカワールドカップ、優勝したブラジル代表で左サイドバックのレギュラーを務めていたレオナルドのインパクトは、アメリカ戦での退場劇も含め強烈だった。
そんな世界的レフティが、ジーコの誘いでワールドカップ直後に鹿島へ加入。日本サッカー界は大騒ぎとなり、レオナルドもまたそれに恥じないプレーを来日早々から見せつけてくれた。
先日Jリーグ30周年でベストゴールの一つに選出された横浜フリューゲルス戦のスーパーゴールなど、日本では2試合に1点以上のペースでゴールを量産。「現役セレソン」の凄さを教えてくれた選手だ。
マルキーニョス
1976年3月23日生まれ
鹿島アントラーズ在籍:2007-2010
最後は少し世代が飛ぶが、鹿島への貢献度では前の4人にも決して引きを取らないマルキーニョス。「Jリーグ史上最高の外国人FW」で彼の名前を挙げる人はいまだに多い。
最初に日本へやってきたのは2001年の東京ヴェルディ1969。鹿島へやってきた時はすでに30歳となっていたが、プレーヤーとしての真価を発揮したのはここからだった。
FWとしての決定力はもちろんのこと、それまでのチームでも見せていた勝負強さや執着心が鹿島のスタイルと完璧にフィットし、攻守両面で欠かせない選手に。
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いまだ鹿島しか成し遂げていないリーグ3連覇(2007~2009)の立役者であり、2008年には個人としても得点王とMVPに輝いている。