【ルポ】もう一つの被爆地・ナガサキの記者が見つめた広島サミット 厳戒態勢と揺れる市民の心 「分断」感じた3日間

厳戒態勢の中、慰霊碑に献花を済ませたG7首脳ら(奥)。平和記念公園を取り囲むフェンスの合間から見えた=19日午後0時6分、広島市の平和記念公園

 被爆地ヒロシマで21日に閉幕した先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)。核保有・依存国のリーダーたちが被爆地に集い、原爆資料館訪問やウクライナ大統領の参加などで世界の注目を集めた。「歴史的」な3日間はウクライナ戦争の終結、そして核なき世界への分岐点となり得るのか。もう一つの被爆地ナガサキの記者が現地を取材すると、希望ばかりではない複雑な思いに直面した。

◆振り返ったバイデンの表情

 広島市内は異様な緊張感に包まれていた。昼夜問わずヘリの音が鳴り響き、平和記念公園を高いフェンスと警察官が囲む。
 厳戒の中、国内外のメディアの取材は大幅に制限された。大半の行事は代表社だけが取材。多くの記者は公園近くに設置された取材拠点「国際メディアセンター」に詰め、中継映像を見守るしかなかった。
 初日の19日朝、それでも記者は公園の規制エリア手前に向かった。G7首脳が予定していたのは、公園内にある原爆資料館訪問と慰霊碑への献花、そして被爆者との面会。核兵器がもたらす惨禍を首脳たちが何を感じ、思うのか。何とか現場でその姿を見たかった。
 正午過ぎ、首脳らを迎える車列が続々と公園に入った。わずかな時間、開いたフェンスの先に、資料館視察を終えて慰霊碑に花輪をささげる首脳たちがいた。カメラのレンズ越しに見えたアメリカ大統領バイデンの表情は、険しかった。
 その頃、核大国ロシアの脅威にさらされるウクライナの大統領ゼレンスキーが広島を訪れる―との情報を海外メディアが報じ始めていた。

◆被爆者から「戸惑い」の電話

 「戸惑いがあるんです。一つは希望、もう一つは懸念。複雑な気持ちです」
 19日午後9時半、国際メディアセンターにいた記者の携帯電話が鳴った。電話の主は長崎原爆の被爆者、木戸季市(83)=岐阜市=。テレビで見たG7広島サミットの様子に「もどかしさ」を感じ、思わず記者に電話をくれたのだった。
 被爆者が求めてきたG7首脳の原爆資料館訪問が実現した。「一人の人間として原爆に向き合えば誰もが心を動かされる」と信じる木戸にとっても、それは核兵器廃絶への「希望」に思えたという。一方でゼレンスキーのサミット参加では、アメリカの戦闘機供与なども焦点になっていた。「結局は対話ではなく武力なのか」。木戸の心は揺れた。
 「違和感」は開催地の広島でも聞かれた。核兵器廃絶を目指す若者団体の共同代表、高橋悠太(22)は厳戒の爆心地周辺を歩き、こう感じたという。「核が使われたその場所から、市民が締め出され、核保有国に占有されてしまったようだった」
 フランス紙などの東京特派員、西村カリン(52)は首脳の面会が広島の被爆者だけだったことに「ひどい」と一言。首相岸田文雄が昨夏公表した行動計画も「なぜ“ヒロシマ・ナガサキ・アクション・プラン”ではないの。長崎を忘れてはいけない」と憤った。

平和記念公園を取り囲むフェンスの上に手を伸ばして原爆ドーム(奥)を撮影する観光客ら=18日午後5時44分、広島市中区

◆被爆地で肯定された「核抑止力」

 サミット後半、G7首脳やメディアの目線は、ウクライナ大統領ゼレンスキーに収れんしていく。
 20日午後3時半、メディアセンターに人だかりができた。輪の中心でテレビ中継を見つめていたのはウクライナのテレビ局のアメリカ特派員ドミトロ・アノプチェンコ(47)。ゼレンスキーが飛行機から広島に降り立っていた。アノプチェンコは取材に言った。「広島と長崎で起きたことは知っている。私は毎朝ウクライナに残った家族の生存を確認していて痛みも分かる。財政的、軍事的支援を(G7から)受け、ロシアに圧力をかけて核兵器が使われないようにしなければ」
 閉幕後の21日夜、ゼレンスキーの記者会見に参加した。原爆資料館視察の感想を問われた彼は、顔をしかめて言った。「恐ろしい内容の写真があった。ウクライナにも毎日同じことが起きている。どうして人間にこんなことができるのか」
 被爆地で、核抑止をなお肯定する共同文書「広島ビジョン」を発表したG7。結束したのは、ロシアと対峙(たいじ)してきた「西側」だった。その分断はむしろ深まったようにも思える。長崎が「最後の被爆地」であり続けられるのか。期待は持てなかった。=文中敬称略=

ゼレンスキー大統領到着を中継するテレビ画面の前で、報道陣の取材に応じるウクライナ人記者(右)=20日午後3時45分、広島市の広島県立総合体育館(国際メディアセンター)

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