雲仙・普賢岳大火砕流から32年 当時小学生だった教師と語り部 「私たちが伝え続ければ」 記憶継承へ一歩

 43人の犠牲者を出した雲仙・普賢岳災害大火砕流から32年の月日が流れ、被災者たちも年を重ねた。そんな中、長崎県島原市安中地区で小学校低学年の頃に被災し「当時を鮮明に語れる最後の世代」が、記憶と教訓の継承に向け動いた。一人は教師として初めて子どもたちの前で語り、一人は語り部として初めて母校を訪れた。

「災害はいつ起きる分からない」と注意を喚起する松﨑さん=島原市船泊町、島原中央高

 大火砕流が発生した1991年6月3日午後4時8分。当時7歳、市立第五小2年生だった松﨑誠也さん(39)は大下町にあったそろばん教室にいた。自宅に帰ろうとすると、空が突然暗くなり、灰混じりの雨が降ってきた。黄色の傘が白くなるのが面白く、回して遊んだ。とはいえ共働きだった父母が戻る午後6時ごろまで自宅で心細く待っていたという。

 島原中央高の教諭になった松﨑さんは5月30日、約180人の生徒を前に語り始めた。大火砕流後はマスクだけでなくゴーグルやヘルメットもかぶって通学した。13歳で市立第三中1年生だった97年には、部活遠征先の鹿児島でマグニチュード(M)6級の大地震に遭遇し、電柱が間近に倒れてきた。こうした経験を紹介し「災害はいつ起きるか分からない。水や食料の確保、避難経路の確認を徹底してほしい」と呼びかけた。
 現在は8歳と6歳の2児の父親。講話を終えると、「噴火災害当時は分からなかったが、育つにつれて多くの方に支えてもらったことを知るようになった。生徒が自分の命を守れるよう伝え続けていく」と抱負を述べた。

 雲仙岳災害記念館スタッフの長門亜矢さん(40)は当時8歳で第五小3年生だった。水無川に近い自宅で一人テレビを見ていた。急にサイレンが鳴り響き、外に出て空が真っ暗になっていることに気付いた。雪のような灰が降っていたが、怖いという気持ちはなく、ただ「何が起きているのか分からない」。後に、それは火砕流によって燃え、巻き上げられた葉だと判明した。

「自分の命を守ることが、大切な人を守ることにつながる」と訴える長門さん=島原市梅園町、市立第三中

 2021年、同級生の親が大火砕流で亡くなった年齢(37歳)に自分も達したと気付き、同館語り部として登録。文献などを読み込んで史実を理解し、講話を重ねてきた。
 2日には、初めて母校の第三中でも臨んだ。「火砕流の怖さを知らなかったので、逃げず、助けも呼ばないで家の中に引き返した」と回顧。勤務先の母と連絡がつかず「ただ電話機の前に座り続けていた」のを最後に当日の記憶は途切れ、自分と姉を探すため両親が危険を冒して自宅に向かっていたと知ったのは後日だった-と明かした。
 生徒約150人にはこう呼びかけた。「過去は変えられないが、未来は変えられる」「自分の命を守ることが、大切な人を守ることにつながる」
 長門さんも10歳と5歳の2児の母になった。取材に「衝撃的な出来事があったわけではない。しかし、学び直して当時の経験と知識を結び付け、話せるようになった」という。同世代にも語り部として期待を寄せながら、こう信じる。「大火砕流を記憶する私たちが語り続ければ、次世代にも教訓は継承されるはず」

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