母のお腹で神戸空襲に、不戦の思い伝えた生涯 「記録する会」前代表中田さんしのび特集 神戸史学会

2021年に亡くなった「神戸空襲を記録する会」前代表の中田政子さんを追悼する冊子「歴史と神戸」

 第2次世界大戦末期の神戸空襲を後世に語り継ぐ市民団体「神戸空襲を記録する会」前代表で、2021年に75歳で亡くなった中田政子さんの功績をしのび、神戸史学会(事務局・神戸市灘区)が発刊する冊子「歴史と神戸」(6月1日号)で特集が組まれた。母親の胎内で空襲に遭った中田さんは、語り部活動や慰霊碑の建立などに取り組み、生涯にわたって不戦への思いを市民に伝えてきた。(久保田麻依子)

 1945年3月17日の神戸空襲で、中田さんは1歳の姉を亡くした。母の三木谷君子さんも大やけどを負ったものの、半年後の9月に政子さんが誕生。71年に発足した記録する会には親子で関わり、中田さんは97年に2代目代表を継いだ。

 「あっけらかんとした人柄で、自然に人の輪ができる方だった」。記録する会の世話人の一人で、尼崎市立歴史博物館(兵庫県尼崎市)の辻川敦さん(63)はそう振り返る。中田さんが代表を務めた90年代以降、戦争体験者の高齢化が顕著となり、各地の会でも担い手不足が深刻化していた。そんな逆風のなか、中田さんは戦跡ウオークや子ども向けのお話し会、全国の団体との催しなどを通して、活動の幅を広げていった。

 特集号は記録する会の協力を得て、中田さんの生涯のあゆみや会の活動を紹介。ゆかりの関係者や家族による寄稿からは、中田さんの平和を希求する信念と、市民目線に立った取り組みへの強い思いがうかがえる。

 神戸空襲の犠牲者は約8千人とされているが、公式な記録はない。このため会では長年、犠牲者名簿の作成に取り組み、2013年には「いのちと平和の碑」を大倉山公園(神戸市中央区)に建立した。中田さんは発起人として市や関係団体と粘り強く交渉をすすめ、同年8月の除幕式ではこうあいさつした。

 「戦争を繰り返してはならないという、たくさんの人の願いが集まってできた。碑に刻まれた名前の向こうに一人一人の生きた命があったことを想像してほしい」

 中田さんは19年に代表を下り、病気療養していたという。辻川さんは「直接、戦争を体験していない普通の女性が、会の代表を務めるのは相当な覚悟があったと思う。柔軟なアイデアと人を上手に巻き込む熱意を持った方だった」としのんだ。

 A5判で700部を発行。ジュンク堂三宮店(中央区)、うみねこ堂書林(同)で販売。600円。

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