県内自治体初のウクライナ避難家族受け入れ、滞在8カ月で得た学び 青森・南部町

帰国に際してマルコ君を除く一家4人が記者会見した場で、別れの言葉を贈る工藤町長(右)

 母国・ウクライナを離れ、昨年10月から青森県南部町に避難していた家族5人が帰国して半月が過ぎた。県内自治体で初めて同国の避難民を受け入れた町は、通常の国際交流とは次元の違う対応を迫られ多くの学びを得た。一家に接した人たちは平和の尊さを再認識。わずか8カ月の滞在ながら、地域にしっかり足跡を残した一家が町を離れた今月1日、名久井岳には無事を祈るかのような美しい虹が架かった。

 避難家族はビトルドさん(50代)、オルハさん(40代)夫妻と娘のテチアナさん(20代)、息子のキリロさん(10代)、テチアナさんの息子マルコ君(10歳未満)。町内にウクライナ出身者が在住していたことから、町はその家族や親戚の避難を想定し受け入れを決めた。

 町内在住者の関係での避難者はいなかったが、その後、国からビトルドさん家族の受け入れを打診された。移住検討者向けの「おためし住宅」が空いていたため、町に到着した10月7日からそこが一家の生活の拠点となった。

 現地に残った家族に被害が及ぶのを避けるため当初、公開に同意した情報は少なく、町も神経をとがらせた。

 通訳の当てはなかったが、幸いテチアナさんがかなり日本語を話せたため、町などとの意思疎通に大活躍。2月にはテチアナさんが顔を出して記者会見し、平和への願いを訴えた。テチアナさんはその後、町の会計年度任用職員となり、パソコンの作業もこなし「非常に優秀な職員。帰国前の講演の資料も自ら作った」と、町企画財政課の金野貢参事は言う。

 言葉の壁はスマートフォンの翻訳アプリや専用の翻訳機が解決。一家の生活圏にあるスーパー・マエダストア名久井店の川島渉店長は「食文化の違いはあるが、可能な限り要望に添うよう対応した」と話す。

 一家は移動手段として、町内乗車無料処理をして配られたICカード「ハチカ」を使って路線バスを乗りこなし、用意した電動アシスト付き自転車も利用した。ただ、仕事上必要で、ビトルドさんも切り替えを希望した自動車免許取得は、在留許可の区分によって条件が厳しく、最後までかなわなかったという。

 工藤祐直町長は「国際グリーンツーリズムの受け入れも経験しており、極端に大変なことではなかった」とした上で「住民らからさまざまな支援もあり、ありがたかった。地方においても、世界に目を向ける大切さを実感した」と話した。

学校、農園、施設で交流

 一家が南部町滞在中、町民と最も多く触れ合ったのは、名川中学校に通ったキリロさん。同校生徒にとっては、遠い国の出来事ではないこととしてウクライナの戦禍をとらえ、平和を考える大きな機会になった。

 学校行事、地域の祭りに積極的に参加したキリロさんをスクールサポーターの佐藤邦彦さんが英語通訳などをしながら支えた。3年の学年主任、村上卓也教諭は「国民性の違いはあったが、勤勉で本当に頑張り屋。できれば、みんなと一緒に卒業させてあげたかった」。生徒たちは送別の集いで千羽鶴を渡し無事を祈り帰国当日はキリロさんとハイタッチしてエールを送った。

 父・ビトルドさん、母・オルハさんもそれぞれ、町を介して町内で仕事を見つけた。ビトルドさんは東農園で農作業に従事。「問題のないレベルで働いてくれた。せっかく最初から手がけた畑に実ったサクランボを食べてもらいたかった」と園主の東司さん。妻・汐那(せな)さんは「本人の希望で、愛称の『ビト』と呼んでいた。奥さん(オルハさん)が焼いたケーキを、みんなでおいしくいただいた」と振り返る。

 オルハさんは、障がい者の就労支援などをしているNPO法人三本の木フレンド(林悦子理事長)で、得意の菓子作り、パン作りを生き生きとこなした。同法人は「食文化を学ぶ良い機会」として受け入れたが、施設利用者もオルハさんと積極的にコミュニケーションを取り、自信につながったようにも見えたという。

 町産アンズや洋ナシを使ったウクライナと南部町の友好の象徴のような菓子などを教わった。オルハさんの手際の良さにはまだ追いつかないが、林理事長は「レシピを守り、いつか味をみてもらう日が来れば」と語った。

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