3月死去の坂本龍一さんとコラボ、西宮拠点の古楽合奏団・ダンスリー 「無口だけど優しい人だった」、世界のサカモトの姿ありありと

故岡本一郎さん(パソコン画面)が率いたダンスリー・ルネサンス合奏団と坂本龍一さんのアルバムを手にする岡本マリヴォンヌさん(右)、直茂さん=宝塚市内

 3月に惜しくも亡くなった音楽家の坂本龍一さんが71年の生涯に残した膨大な仕事のうち、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)活動休止中のアルバム「エンド・オブ・エイシア」(1982年)は、兵庫県西宮市を拠点とした古楽アンサンブルの草分け「ダンスリー・ルネサンス合奏団」とのコラボレーション作品だ。リーダーの岡本一郎さんも昨年7月に86歳で急逝。「みんな若かった。いい思い出ですね」と懐かしむ岡本さんの妻マリヴォンヌさん(80)と長男直茂(なおも)さん(47)に、当時の話を聞いた。(田中真治)

 ダンスリーは72年結成。一郎さんは関西学院中学部在学中にクラシックギターを始め、毎日放送のディレクターを経て、31歳でギリシャ国立音楽院に留学。5年間の滞欧中に中世・ルネサンス音楽に出合い、リュートの腕を磨いた。ギリシャ留学仲間だったフランス人のマリヴォンヌさんも、美術家としてダンスリーの活動をコーディネートしてきた。

 ファーストLP「絆」が77年にURCレコードから、セカンドLP「ダンスリー」が81年に日本コロムビアから発売。このセカンドの帯に、坂本さんが言葉を寄せている。

 〈舞踊にちなんだ名をもつ、このアンサンブルの空間・時間を越えたメニューにただ脱帽!! 中世からきた新しいポップス!! アコースティック・サウンドの魅力的な世界!!〉

 これは、マリヴォンヌさんによると「コロムビアとつながっていた」ことがきっかけだと思われる。

 坂本さんがYMOデビュー直前に発表した、ファースト・ソロアルバム「千のナイフ」(78年)も、コロムビアの依頼で制作。担当ディレクターの斎藤有弘氏と坂本さんは、クラシック班のディレクター・川口義晴氏の紹介で知り合ったという。その川口氏はダンスリーのセカンドで、プロデューサーを務めている。

 「川口さんよりも、萩原真さんというディレクターがダンスリーの仕事を大好きで、友達になった。萩原さんは生明(あざみ)慶二さんと仲が良くて、関西に来るときは必ずウチに来てた」(マリヴォンヌさん)

 生明氏は日本におけるハンマーダルシマー演奏の第一人者(映画「犬神家の一族」テーマ曲などが有名)で、音楽人類学者としても知られる。自身も演奏で参加したダンスリーのセカンドのリリース経緯を、インタビューで証言している。

 〈友達のレコード会社のディレクターにルネッサンス音楽を録音したらどう?って提案したら、そりゃいいねってことになって、関西にいたルネッサンス音楽の演奏グループを大阪で録音することになったんだよね〉(「Salida」ホームページより)

 録音は80年8月に西宮の神戸女学院大で。坂本さんとのコラボにつながる事情も、次のように回想している。

 〈しばらく経ってからそのグループが関西から東京公演のためにやって来て石橋メモリアルホールでコンサートをやった。結局、僕もまたダルシマーで参加することになっちゃって。その時の観客の中に坂本龍一君がいたわけですよ。(中略)そしたら楽屋にまで来て「一緒にやりたい」ってわけだよね。「あんた何やりたいんだ?」「ポルタティフ・オルガンを弾きたい」って言うから、そりゃいいねってことになって〉(同)

 ダンスリーのセカンドは古楽だけでなく、沖縄や津軽民謡、韓国のアリランや反体制詩人・金芝河(キム・ジハ)氏の詩に現代音楽の作曲家・高橋悠治氏が曲を付けた「めしは天」などを収録している。右半面が仏像、左半面がギリシャ彫刻のジャケット画を手がけたマリヴォンヌさんはこう語る。

 「ヨーロッパを演奏旅行するのに、ダンスリーは日本人でしょう。だから東洋の音楽もやらないといけないと。すごく受けたよ。関係ないようだけど、パパ(一郎さん)が自分の世界に入ってたものをやってたわけ」

 坂本さんも、近代以前の西洋音楽や民族音楽に早くから関心を深めていた。作曲家として高橋悠治氏への尊敬の念を口にし、高橋氏のコロムビアでの仕事にも、ソロアルバム以前に参加している。

 「ダンスリーと合うものがあったんだろうなという気はしますね」と直茂さん。父・一郎さんから生前に聞いたところでは、東京公演に訪れた坂本さんは「矢野顕子の伴奏の坂本龍一です」とあいさつしたそうだ。矢野さんは「春咲小紅」がヒットし、アルバムを坂本さんと共同プロデュースし始めた時期にあたる。左党の一郎さんとは酒杯を交わし、高橋悠治氏の音楽を巡っても意気投合したそうだ。

 そうして、坂本さんのプロデュースしたアルバムが「エンド・オブ・エイシア」。タイトル曲や高橋悠治氏とのピアノデュオ曲「グラスホッパー」などの自作を古楽器用に編曲し、ダンスリーのレパートリーと交互に収録した。1曲目の「ダンス」、ラストの「リヴァー」は、坂本さんの書き下ろしだ。

 録音は、81年10月に宝塚ベガ・ホール(宝塚市)、12月に日本コロムビアで。YMOはワールドツアーを果たし、中期の重要作「テクノデリック」を発表、1年の休止期間に入ろうとしていた。一方、坂本さんはこの年にNHK・FM「サウンドストリート」でDJを始め、アルバム「左うでの夢」を発表。ソロ活動に注目が高まっていたが、どんな様子だったのだろうか。

 「全然普通で、同じ音楽家ですよ、という感じで。すごい優しいけと、無口な人ね。ベガ・ホールでも坂本さん、まだ曲を書いている途中で終わってなくて。君(直茂さん)とずっと遊んでいた記憶があるよ」(マリヴォンヌさん)

 当時、直茂さんは5歳。「なんとなく覚えてます。ネコについて、いろいろ面白い話を聞かせてくれたような…」

 岡本家は品のある黒猫を飼っていて、坂本さんは子どもの頃からのネコ好き。録音時には練習場所だった西宮・仁川の岡本家も訪れたといい、ネコのおかげで気が和んだのかもしれない。

 ダンスリーは同年11月10日には、ベガ・ホールで「タイムトンネルの旅」と名付けたコンサートを開き、20世紀の坂本さんの曲から13世紀の中世音楽までを演奏している。

 「坂本さんの曲、いい曲だと思ってないと、やりませんし、みんな楽しんでたよ」(マリヴォンヌさん)

 「エンド-」は翌82年2月に発売。約2万枚を売り上げたという。83年には「ゲスト・坂本龍一」として、前2作の編集盤「サラセンの夢」がコロムビアから発売。1曲目の「シャンソネッタ・テデスカ」(セカンド収録)がキリンビールのCM曲になるなど、古楽の聴き手を広げた。

 「ダンスリーにとって、知名度が上がるきっかけになったと思う」と直茂さん。制作サイドも期待を寄せていた。

 「上京しないかとレコード会社に言われたけど、断ったの。自由に、好きにしたいから。家族みたいなグループで、東京へ行ったら新しいメンバーを集めないといけないし」(マリヴォンヌさん)

 コラボ後も、東京でダンスリーの公演などがあると訪れていたという坂本さんだが、83年にはYMOが「散開」し、映画「戦場のメリークリスマス」に出演・音楽制作。「ラストエンペラー」(87年)のサントラでアカデミー賞を受賞、ニューヨーク移住と、「世界のサカモト」として活動の場を広げていく。

 「お互いに忙しくて、それからは会ってないね。年賀状のやりとりはあったけど」(マリヴォンヌさん)

 その年賀状や直筆の譜面は、95年1月17日の阪神・淡路大震災で失われたとみられる。被災した岡本家では、一郎さんの父親が亡くなった。前日の16日はマリヴォンヌさんの誕生日で、お祝いをした翌日の悲劇。ちなみに1月17日は、坂本さんの誕生日でもある。

 それから四半世紀-。一郎さんは脳梗塞で倒れるも復帰し、2012年に40周年のコンサートを開催。その後も後進の指導を続けたが、50周年を迎えるはずの22年に亡くなり、岡本家は住み慣れた土地を離れた。

 直茂さんは22年1月から投稿サイト・noteで、一郎さんやマリヴォンヌさんの話を基に「ダンスリー・ルネサンス合奏団伝」の執筆を始めていた。もちろん、坂本さんのエピソードも登場する。実は、書籍化の話が持ち上がり、出版社から坂本さんに帯の文章を依頼していたという。

 「ご病気だから大丈夫かなと思っていたんですが、話は伝わっていたようで。残念ながら、間に合わなかった」(直茂さん)

 結成から10年足らず時期の、大切な出会い。「いい思い出ですね、いい人だった」。マリヴォンヌさんは愛惜の情のこもった声で、そう悼んだ。

© 株式会社神戸新聞社