魅惑の大型移籍を断って、忠誠を誓い続けた8人の戦士

サッカー選手なら誰もが魅力的な移籍に心を揺さぶられるが、それを断って忠誠を誓った選手たちもいる。

ここでは、『FourFourTwo』による「メジャー移籍を断った8人の選手」を見てみよう。

ジェイミー・ヴァーディ

2006年にプレミアリーグで24ゴールを叩き出し、レスターを奇跡の優勝に導いたヴァーディ。

すると、アーセナルは2000万ポンド(36億円)に設定されていたレスターとの契約解除条項を発動させた。

ヴァーディはロンドンで子供のための学校を探すなどアーセナル移籍を真剣に検討。だが、レスターでいいものを手に入れられると考えて手を引いた。

「レスターはタイトル獲得をさらに発展させたいクラブであり、自分もその一員でありたいと思った」と。

当時のクラウディオ・ラニエリ監督は「夢は続く」と彼にメールを送ったが、翌年のレスターは低迷し、指揮官は解任。それでもヴァーディはレスターのために得点を決め続けた。

アレッサンドロ・デルピエロ

2006年、ユヴェントスでスクデット勝ち取ると、イタリア代表でもワールドカップ優勝を成し遂げたデルピエロ。だが、その直後にユーヴェはカルチョポリスキャンダルでセリエBへと降格した。

ユーヴェはズラタン・イブラヒモヴィッチ、パトリック・ヴィエラ、ファビオ・カンナヴァーロらを失うことになったが、パヴェル・ネドヴェドやジャンルイージ・ブッフォンら残留を選んだ主力たちもいた。

最も重要だったのは、象徴的な10番であるデルピエロが残留を宣言したことだった。「本物のジェントルマンは決してレディを離さない」と(ユーヴェの愛称は老貴婦人)。

デルピエロはユーヴェをセリエA昇格に導くも、チームは4年もタイトルから遠ざかった。彼はベンチ行きになってもユーヴェに残った、チームはフラムにEL敗退に追い込まれた時も、2度もリーグ戦で7位に終わった時も…。

2011-12シーズン、アントニオ・コンテ監督が率いるユーヴェがスクデットを獲得した際、復活を見届けたデルピエロはイタリアサッカーに別れを告げた(シドニーFCに移籍)。

彼のラストゲームで涙に暮れたユヴェントススタジアムはクラブ史上最多スコアラーがもう1年プレーすることを懇願していた。

※記事では触れていないが、デルピエロはマンチェスター・ユナイテッドのサー・アレックス・ファーガソンから2度移籍を誘われたと明かしている。1度はユーヴェがセリエBに降格した際、さらに2000年以前にも獲得オファーがあったとか。

スティーヴン・ジェラード

ミランとのCL決勝でイスタンブールの奇跡を起こした後にジェラードがリヴァプールを去るというのはバカげた新聞記事のように思えた。

だが、実際には、チェルシーのジョゼ・モウリーニョ監督に誘われた彼は2005年の夏に移籍願いを提出していたのだ。

プレミアリーグ王者であるチェルシーから求められたことで彼は思い悩むことになった。大きな野心を抱き、明確なビジョンを持つ指揮官のクラブでプレーするか、それとも、8歳の時から愛してきたクラブに残るか。

後にジェラード本人はこう話している。契約延長交渉が停滞しているのに苛立ち、リヴァプールが自分を引き留めたいという意思を示してくれることだけを願って移籍願いを提出したと。

結局、彼はレッズに身を捧げることを選択。引退の際、こう述べた。「もちろん、プレミアリーグで優勝できなかったという大きな後悔はある。だが、自分の忠誠を誇りに思う…リヴァプールは全てを意味する」。

フランチェスコ・トッティ

現代イタリアサッカー界のカルト的英雄、そして、その忠誠さで崇拝される10番は、デルピエロだけではない。

ルチアーノ・スパレッティほどトッティのケースをうまく表現した人間はいない。彼はこう言った、「コロッセオをローマから移動させるほうが簡単だろう」と。

25年もの間、彼をスタディオ・オリンピコから引き離すほどの魅力的なオファーはなかった。

ローマで唯一となるスクデットを獲得した2000-01シーズンの2年後、レアル・マドリーがアプローチをかけた。

だが、王子は「学校で最も大事なのは家族だと教わった。貧しい両親のもとを去り、金持ちの他人と暮らす話など聞いたことがあるか」と言うだけだった。

ローマでのトッティは他で成し遂げられたであろう何分の一も手にすることはできなかった。

だが、セリエA史上2位となる得点を決めた男は、2017年にサッカー界で最も感動的な別れを楽しみ、涙と笑顔を浮かべた。それはどんなトロフィーも彼にくれなかったであろう感情だ。

アラン・シアラー

2017年にマンチェスター・ユナイテッド入りしたロメル・ルカクは「世界最大のチームに誰がノーと言えるか」と口にした。その際、シアラーは「私はそうした。断った…バルセロナを」と即ツイート。

20年前、彼はブラックバーンにプレミアリーグ優勝をもたらし、2年連続で得点王に輝いた。EURO96でも得点王になると、マンチェスター・ユナイテッドが再度獲得に乗り出す。

サー・アレックス・ファーガソンが最初にシアラー獲得に興味を示したのは、シアラーがサウサンプトンからブラックバーンに移籍した1992年だった。

だが、彼は地元のニューカッスルへの移籍を選択。1年目には再びゴールデンブーツを獲得するが、順位は彼が断ったユナイテッドに次ぐ2位だった。

そのシーズン後、バルサのサー・ボビー・ロブソン監督はシアラーに電話をかけて誘いをかけた。

だが、セントジェームズパークから彼を引き離すには十分ではなく、シアラーはキャリアを通じてニューカッスルに忠誠を誓い続けた。

そこでトロフィーを勝ちとることはできなかったが、プレミアリーグ史上最多となる260ゴールを記録した。

ディエゴ・ゴディン

2015年、マンチェスター・シティの監督になっていたマヌエル・ペジェグリーニは、ビジャレアル時代の教え子であるゴディンとの再会を望んでいた。だが、アトレティコ・マドリーから彼を引き離すことはできず。

その後、このウルグアイ人CBはこう明かした。「2年前にペジェグリーニがいたシティが僕を欲しがったのは事実さ。彼が求めてくれたことは誇らしいが、自分はこのクラブのファンの一員のように感じている。アトレティコでとても幸せさ」。

ゴディンは2019年までアトレティコに忠誠を誓い、その後、インテルへと移籍した。

パヴェル・ネドヴェド

2009年、ユヴェントスは契約延長を拒否して退路(引退)を示唆したことでネドヴェドを苛立たせた。

セリエB降格時にもユーヴェへの忠誠を誓った彼に誘いをかけてきたのが、当時インテルの監督だったジョゼ・モウリーニョ監督だった。インテルへの移籍を促し、CL優勝を約束したのだ。

ネドヴェドは分かっていた。モウリーニョがどれほど優れているか、彼のもとでプレーすれば成し遂げられることも。だが、両チームのライバル関係がその移籍を阻んだ。後年、彼はこう明かしている。

「自分はユヴェンティーノだったし、今でもそうだ。だから、ノーと言ったのさ」、「ユーヴェを愛しすぎていて、インテル入りはできなかった。本当にユーヴェでCL優勝をしたかったが、他のユニフォームを着てならありえなかった」。

結局、モウリーニョ率いるインテルは2010年にCLを含めた3冠を達成している(ネドヴェドはキャリアで一度もCL優勝を果たせず)。

マレク・ハムシーク

2012年、当時彼の代理人だったミーノ・ライオラはこう述べた。

「メッシだろうとイブラヒモヴィッチであろうとハムシークであろうと、偉大なアスリートには新たなモチベーションが必要だ。そうでなければ平凡な選手になってしまう」と。

そのメッセージは明確だった。ライオラはハムシークがナポリを去る時が来たと信じていたのだ。

だが、その後、彼はハムシークの代理人ではなくなり、後任の代理人は彼が拒絶した(契約延長)オファーについて話し合った。

バイエルンやユヴェントス、プレミアリーグのクラブからずっと狙われていたハムシーク。だが、彼は他のどこよりも、ナポリで勝つことを重要視した。「自分には給料やトロフィー以上のものが必要なんだ。魂を揺さぶる何かが」と。

【画像記事】「愛されながらも、クラブと別れることになった10人のレジェンド」

その彼が30年ぶりのナポリ優勝に立ち会えなかったのは残念でしかない。

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