京都の桂離宮は「シブイ」 そんなイメージが世界を席巻した謎とは

【資料写真】桂離宮の書院

 「桂離宮はシブイ(渋い)」。そんなイメージが世界中を席巻していた時代があったという。モダニズム建築の隆盛に伴って再発見された桂離宮(京都市西京区)と、「シンプルさの中にある豊かさ」を表す言葉として海外で流通した「シブイ」は、いつ、どのようにして結びついたのか。

 その謎を追った京都美術工芸大講師の江本弘さんの論文が、権威ある米国の雑誌「JSAH(建築史家協会雑誌)」に掲載された。

 1941年創刊の同誌に、日本人の単独論文が掲載されるのはおよそ半世紀ぶりという。江本さんは「日本の文化が世界でどのように受容されたかを問うジャポニズム研究のさらなる発展につながれば」と、各国で読まれることを願っている。

 「桂離宮=シブイ」のイメージが決定的になったのは、米国のインテリア雑誌「ハウス・ビューティフル」で60年に組まれた特集「ディスカバー・シブイ」だという。「日本建築の神髄は“シブイ”」にあること、そしてその極致が桂離宮である、と伝えていた。

 なぜこの二つが結びつけて語られたのか、江本さんはそれぞれの前史をたどる必要があると考えた。

 すると、1920年代から30年代にかけて、「桂離宮」がドイツで、「シブイ」が米国で、受容されていく過程が浮かび上がってきたという。

■モダニズムが注目

 桂離宮といえば、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが絶賛し、30年代に日本国内で一大ブームを巻き起こしたことが知られている。

 しかし、ドイツで広く知られるようになったのは、旧京都中央電話局(現・新風館=京都市中京区)の設計などで知られる建築家吉田鉄郎の影響が大きい、と江本さんは指摘する。

 折しもドイツではモダニズム建築が盛んになり、その先駆として日本の伝統建築に熱い視線が注がれていた。

 江本さんは「柱とはりが生み出す構成の美しさ、直角で構成された空間美が注目された」と説明する。そうした中、吉田はドイツで出版した著書「日本の住宅」(35年)で、桂離宮を「日本の住宅の典型であり極致」と紹介し、その評価を定着させたという。

■世界巡った60年代

 一方のシブイは、まず20年代後半に観光立国を目指した日本が、日本文化の美の特質を表すキーワードとして国外へ発信したのが出発点。ただ広く使われるようになったのは、戦後に米国が日本社会に関心を向けるようになってからで、民芸運動の柳宗悦の米国講演などもあいまって、美学用語として定着していったという。

 同じころ、建築界でも米国とドイツの交流がさかんになり、「日本建築の頂点としての桂離宮」のイメージが米国に流入していく。

 両者が融合し、「桂離宮=シブイ」が語られたピークは60年代で、やがて美学用語としてのシブイの言葉すら廃れていったと江本さんは分析し、「失われた言葉をたどることで、日本文化がどのように受容されていったかをグローバルに見ることができる」と研究の意義を語る。

 そもそもなぜ、こうしたテーマに着目したのか。

 江本さんは「日本の建築文化受容の世界史を描きたかった。その時、シブイは唯一無二のキーワードとして、あらゆる文献を串刺しにできた」と明かす。

 少し前にクールジャパン戦略の文脈で「カワイイ」が流行したように、シブイも「もともとの意味を離れて、世界中を駆け巡っていた。発信する側の意図や思いとは別に、受け手側の欲望が映し出される。受容史研究の面白さです」と語る。

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