平和大通りは “平和のシンボルロード” 比治山は “平和の丘” に 「平和のまちづくり」広島市の松井一実市長に聞く

新しい広島駅ビルに、新サッカースタジアム。広島の「活力アップ」に向けて大規模工事が進む中、「平和」をテーマにしたまちづくりも行われているのをご存じでしょうか?

広島市 松井一実 市長
「平和への思いを共有するまち」

平和大通りは鎮魂とにぎわいが調和した「平和のシンボルロード」に、南区の比治山は被爆からの復興を実感できる「平和の丘」にする計画が進んでいます。

広島市 松井一実 市長
「先人の努力をどう引き継ぎ、生かしていくか」

8月6日の原爆の日を前に、広島市の「平和のまちづくり」について深掘りします。

今、広島市中心部で進むまちづくりは、「ひろしま都心活性化プラン」に基づいています。広島駅一帯と紙屋町・八丁堀地区を「東西の核」として、「楕円形の都心づくり」を進めようというものです。新しい広島駅ビルも新サッカースタジアムもこの楕円形の中にありますが、今回、ご紹介するのは平和大通りと比治山の再整備についてです。この2か所を中心とした「平和のまちづくり」について広島市の松井市長にインタビューしました。

広島市 松井一実 市長
― 市長は常々、まちづくりの領域の1つに「平和への思いを共有するまち」を挙げています。この言葉に込めた思いは?
「思いというか考え方を整理しますと、原子爆弾を投下されて壊滅的な打撃を受けたね。人も住めなくなる、街も破壊される、そういったこの街が戦後、着実に復活してきて78年。どうしてこういうふうにうまくいったんだろうと、どなたも考えるんですよね。そのときにまずは間違いなく、まちづくりをした先人・先輩がいるということ。その先輩という存在の努力のたまものなんですよね」

松井市長は、平和のまちづくりの原点として1つの法律をあげました。1949年、原爆投下の4年後に制定された「広島平和記念都市建設法」です。「平和を実現する理想の象徴」として、国などの関係機関が広島市に「できる限りの援助」を与えることが書かれています。

広島市 松井一実 市長
「その象徴的な意味と、それを使っていろんな制度が動いて、今の広島があるっていうことを確認したときに、これを中心にまちづくりをやるべきだというふうに思いまして、市長をやっています」

この法律によって作られたインフラの1つに平和大通りがあります。戦時中に建物疎開をしてできた防火帯を基に整備された全長およそ4キロの道路です。78年前のあの日、建物疎開に動員された人たちが原爆の閃光に直接さらされ、犠牲になったこともあり、数多くの慰霊碑があります。

小林康秀 キャスター
「『平和への思いを共有するまち』の鍵となるのがこの平和大通りです。松井市長は子どものころの思い出も交えながら、この通りの再整備のビジョンを話しました」

1953年生まれの松井市長は、少年時代の平和大通りを今も覚えているといいます。

広島市 松井一実 市長
「やせた木がぽつんぽつんとあって、原っぱがずっと続いてるような所だったんです」

― 今みたいに緑が多い感じでは?
「全然ない。もう何十年も前だもんね。まだまだ車も当時、少なかったからね、走ってもぽつんとしかね」

広島市 松井一実 市長
― 平和大通りの目指すべき姿は、市長はどんなふうに描いていらっしゃいますか?
「1回行くと『なかなかよかったね』『また行ってみようか』と、そんなふうになる道。だから理想は『平和のシンボルロード』にするといったことが目標値なんです。今ある慰霊碑とかいろんなものも、それはそれでちゃんと保存しながら大事にして、空間ごとの整理をきちっとしていくと」

平和大通りの整備や活用のイメージを表現した動画があります。再整備の対象は全長およそ4キロのうち中区の2.6キロ。「鎮魂」の場である慰霊碑は元の場所で保存。その上で子どもが水遊びできる噴水、休憩場所、イベントを開ける屋根付きステージなど「憩い」の空間を設けます。

カフェなどの飲食、物販施設といった「にぎわい」のスペースも作ります。

広島市 松井一実 市長
「最近、よく言うウォーカブルなまち、歩きやすいまちにするというふうに考えたときに、そういう機能論をちゃんと考えた道にすると」

小林康秀 キャスター
「広島市南区の比治山です。山頂にはこちら放射線影響研究所があります。『平和の丘』構想を巡って松井市長は、この放影研の建物についても言及しました」

比治山は、被爆から復興した街を一望できる立地を生かし、「平和の丘」として再整備されます。その一環として現代美術館がことし3月にリニューアルオープンし、すでに陸軍墓地の改修なども行われました。山頂にある放影研は2026年度、広島大学霞キャンパスに移転する予定で、その跡地の活用策が注目されています。

広島市 松井一実 市長
「放影研というかね、『ABCC』という呼び名の方がふさわしくてね、それでずっと記憶してるというね。自分の母親があそこに通うと言っちゃおかしいけども、行っていたのは記憶してましてね」

放影研は、前身のアメリカABCC(原爆傷害調査委員会)の時代から被爆者を追跡調査しています。その調査を母親が受けていた松井市長。比治山を「平和の丘」にする構想は、1期目から温めていたといいます。

広島市 松井一実 市長
「放影研の移転も、国の方も了解してもらって、広大と協力関係ができることとなりましたので、いよいよ少なくとも平和文化を象徴するような、あるいは、その利便性を生かすようなゾーンにする」

「平和の丘」の基本計画では、放影研の職員宿舎である「比治山ホール」にレストランを誘致。放影研の研究施設の跡地については、平和を実感し、芸術文化に触れられる多目的エリアを整備するとしています。松井市長は、この多目的エリアで放影研の研究施設の建物を一部保存する可能性について言及しました。

広島市 松井一実 市長
「放影研の建物が建築技術的にね、保存してもいい技術があるとかね、技術の結晶だとかって意見もありますからね」

― かまぼこ型の建物ですね。
「それがどういう意味合いがあるかということもよく聞きながら(検討する)」

ことし5月のG7サミットで各国首脳の訪問が実現した広島市。その背景には、松井市長が就任以来、「迎える平和」を掲げて国際会議の誘致などに力を入れてきたこともあります。平和のまちづくりには、迎える平和を市民レベルで強化する狙いがあるといいます。

広島市 松井一実 市長
「どんどん広島に来て、見てもらって、そして、その国の中で広島のようにしないということをやる為政者を出してください、出しましょうよと。こういうふうな展開になるということをイメージしながら、広島が『迎える平和』をやり続ければ、どうでしょうね。大きな循環を目指して、いつまでも平和の象徴としていられると思っています」

平和大通りでは来年度から緑地の工事が始まります。飲食や物販などの施設については整備を担う民間業者を来年度に公募・選定、2025年度から実施設計・工事をします。2026年度に再整備を終える予定です。

比治山の平和の丘については、2026年度に放影研が移転した後、山頂の活用策を最終的に決定することにしています。

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