災害ボランティアの精神、100年前の兵庫にも 関東大震災、神戸港から混乱の帝都へ 翌日から救援続々

被災地へ出発した神戸新聞社による救援船「タイン丸」(上)と物資配給用に積み込んだ貨物自動車(下)=1923年9月5日付神戸新聞夕刊より

 災害ボランティアの精神は100年前にも息づいていた-。1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では、兵庫県内からも被災地支援の動きが活発だった。当時の神戸新聞紙面をたどると、募った食料や日用品が続々と集まり、官民問わず、船が被災地へ相次いで出航したことが分かる。(井川朋宏)

 発生翌日の2日午前、当時の折原巳一郎兵庫県知事らは、神戸港から被災地へ、日本郵船の「山城丸」の派遣を決定。同日夜、米千石(約150トン)や食塩2万斤(約12トン)、梅干し、しょうゆ、するめなどを積んで出航した。

 3日付の朝刊1面には〈残炎狂ふ潰滅の帝都〉〈阿鼻(あび)叫喚 焦熱飢餓〉と、被災地の惨状を伝える見出しが並ぶ。

 山城丸は横浜に到着。混乱状態の現地は危険とされたが、志願者約100人が4日に上陸し、3班に分かれて救援活動をしたという。8日付夕刊では〈神戸市民の決死隊入京す〉との見出しで、こう伝えている。

 一行の意気はすこぶる旺盛でたとえ死を賭しても上陸し一般の救援に向かうべし

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 神戸新聞社も4日午後、救援のため海運会社の汽船「タイン丸」を借り、被災地へ出航した。先立って救援物資を募集。その反響は大きく、物資は山のごとく積み重ねられたという。食料品や衣類、雑貨などが大量に集まり、徹夜で物資を車に積み込み、港へ。出発時の船について、紙面はこう伝える。

 これ悉く我が兵庫県民が震地の同胞に対する同情の結晶ではないか

 兵庫県民の真心を載せて船は勇ましく出発した

 船は横浜、東京・芝浦に着き、多くの物資を届けたという。9日付朝刊では〈哀れ飢餓に瀕せる同胞の満面にみなぎる感謝の微笑よ〉との見出しで、被災者に迎えられた様子を伝える。

 涙も声も共に枯れて、蒼白にして生色のあせ果てたる顔に寂しき感謝の笑みを点ずる

 一方の神戸には、汽車や船により、被災地を逃れた避難者は1万人以上に上ったともされる。山城丸も横浜から重症者7人を含む避難民600人余りを乗せ、6日夜に戻ったという。

■賀川豊彦、無料診断所を開設

 関東大震災の被災地では、神戸出身の社会運動家、賀川豊彦(1888~1960年)も救援活動に力を尽くした。新聞で被害を知ると、翌2日に神戸港から出た山城丸に乗船。横浜港から徒歩などで東京へ向かったという。

 被災地では焼け野原を目の当たりにし、衣類などの物資や現金が不足する状況を聞き取った。いったん神戸に戻ると、約1カ月間、関西や四国、九州を巡って50回以上、講演。窮状を訴えて協力を呼びかけ、寄付金を集めた。

 10月に再び東京へ訪れ、墨田区を拠点にテントを張り、炊き出し、布団と衣服の配給のほか、無料診療所を構えた。その後も東京で被災者の生活を支え続けた賀川は「もしも、私たちが少しでも、塵(ちり)ほどでも罹災者の苦しみを我らの背に負わせてもらうことができるなら、これほどうれしいことはない」と述べている。

 ボランティアの先駆者となった賀川について、神戸市中央区にある「賀川記念館」の田中重至(しげのり)参事(69)は「神戸での貧民救済活動と同じように、その時に困っている人、悩んでいる人を救いたい思いが自身を突き動かしたのでは。その精神は後世に引き継がれている」と語った。

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