「楽譜を読めますか?」と聞かれて、自信を持って「はい!」と答えられる人はなかなかいないでしょう。取り組む曲のレベルが上がれば上がるほど、読解困難な楽譜が出てきますし、一口に「楽譜を読む」といっても「ドレミが分かる」というレベルから、「頭の中で音を完全に再現できる」というレベルまで様々だからです。
それでも筆者は20年以上の訓練と経験で、「楽譜を読める」と自信を持って答えることができるようになりました。今回の記事では、「楽譜を読めるようになった!」と思えるまでの経験談を綴っていくことにします。
幼少期:楽譜は日本語よりも身近だった
皆さんは、まだひらがなやカタカナを読むことができなかった頃の自分を覚えていますか?私は幼い頃、文字の読み書きがそれほど得意ではありませんでした。小学一年生のときに、「れ」と「わ」の違いがわからなかったり、カタカナの「ヌ」の書き方が全く覚えられなかったことを覚えています。
一方で、楽譜は読むことができました。ひらがなを読むことが出来なかった頃の自分は覚えていますが、楽譜を読むことができなかった自分は覚えていません。
また、楽譜を書いて遊ぶこともよくしていました。その楽譜の意味がわかって書いていたかは不明ですが、絵を描く気持ちで楽しんで書いていたと思います。
高校生時代:スコアを読み続ける
しかし、17歳のときに音楽の道を志して勉強を始めると、同じく音楽の道を志している仲間とは、比較にならないほど楽譜が読めませんでした。
1か月練習してようやく弾けるかどうか、という曲を初見(初めて楽譜を見た時にそのまま弾くこと)で弾かれてしまったときにはレベルの差に愕然としました。
それからは毎日図書館でCDを借りて、気に入った曲は楽譜を買って、通学時間中に楽譜を見ながら聞き続けるという生活が始まります。
初めて自分のお小遣いで買った楽譜はロシアの作曲家ショスタコーヴィチの「弦楽四重奏1-3番」でした。文字通り楽譜に穴が空くほど読み込み、全ての音を覚える勢いでした。
そして、最も読み込んだ楽譜はバッハの大作「マタイ受難曲」のスコアです。全て演奏すると3時間ほどかかる大曲です。そのドイツ語の歌詞をインターネットで調べながら全て翻訳し、CDを聞きながら何度も何度も読み続けました。
⇒ピアニストはなぜ両手をバラバラに動かせるのか? 「両手でピアノを弾くコツ」を解説
当時持っていたiPodには再生回数が記録される仕組みがありましたが、マタイ受難曲の再生回数は180回、その後データを喪失したあとも110回再生していたので、高校時代の1000時間近くをマタイ受難曲に費やしたことになります。
また、東京芸術大学作曲科の受験にあたっては、ブラームスの室内楽を全て覚えよう、という意気込みで楽譜を読み込み続けました。
お小遣いはほとんど楽譜につぎ込んでいきましたが、それができたのもポケットスコアのおかげです。
ポケットスコアは1000円前後でオーケストラの楽譜が買えるため、週に1冊仕入れて、とにかく聞きこむということをしていました。
大学生時代:楽譜の読み方を勉強する
作曲科に入って、また仲間たちとのレベルの差に愕然とさせられます。曲の知識の量が圧倒的に不足していて、ちょっとした雑談にでてくる曲の話題にまったくついていけません。
また、楽譜を読んだ時に、曲の背景や形式まで読み解く能力に圧倒されていました。
大学の図書館はさすがに充実していて、よほどマニアックな曲でなければ大抵揃っているので、狂ったように楽譜を読み続けていました。特に現代音楽の楽譜は物珍しさもあって、知らない作曲家の名前があればとりあえず借りました。
⇒クラシック音楽の歴史を知ろう バッハ、ベートーヴェン、ショパン…どんな位置付け?
楽譜を読む量に関しては、大分増えてきましたが、複雑なスコアを読み解く能力はまだまだでした。オーケストラのスコアを見て、完全に頭の中で音を再現できる、という段階に行くにはまだまだ訓練が必要でした。
そんなときに、先生に言われた言葉が、今後の楽譜の読み方の指針になります。
「楽譜はページの左上から読みなさい」
衝撃でした。左上から読むと、今まで見落としていたたくさんの情報が入ってきます。 左上から右に向かって読んでいくと、まずページ数を記した数字が見えます。その次は、曲のタイトルか、または献呈者が見えるでしょう。作曲年や、副題が書いてあることもあります。
左上から読んでいき、音符にたどりつく前に、これほど膨大な情報があり、それが曲に対しての理解を深めるために役に立つものだったとは、それまで思いもしないことでした。
「左上から読む」これをするだけで、どんな複雑な曲の楽譜も、見たことのないような見た目の楽譜も、読むことができるようになりました。
また、オーケストラのスコアを読むときも左上(大抵フルートかピッコロから始まります)から一つ一つ楽器の旋律を読み、これを脳内で重ねていけばよいのです。これでオーケストラの楽譜を脳内で再現することができるようになりました。
留学時代:楽譜を読んで演奏する
楽譜は読めるようになっても、それを演奏することができるか、というと、全く別の問題です。
フランス・パリに留学すると、楽譜を読んで弾く、という能力に突出している人にたくさん出会いました。
いまでもよく記憶に残っているエピソードがあります。筆者が2カ月間くらい必死に練習した難曲、ヒナステラの「ソナタ1番」を演奏会で弾くことになりました。当日、会場でのリハーサルでこの曲を弾いていると、共演者の友達が「僕だったらこう弾くよ」とその場で楽譜を読んで弾き始めたのです。 そして彼は初見でほとんど完璧に弾いてみせたのです!
このような自分の能力を遥かに超えた、想像すらできなかったような能力の持ち主にたくさん出会ってきました。
パリではピアニストの仕事は多い一方で、上手なピアニストもたくさんいます。なんとか自分の強みを活かしていかなければ、なかなか仕事を見つけることができません。筆者がパリで生活していくために、自分の強みを「楽譜を読めるピアニスト」だということにしようと思いました。
実際の現場では、2-3日も練習期間があれば良い方で、当日楽譜を渡されることがほとんどです。また、時には手書きの楽譜だったり、古い時代の書き方だったり、オーケストラのスコアだったりと、何が出てくるかわかりません。
このような場合、初見で全ての音を演奏するのは不可能です。どの音が重要で、どの音は省いてもよいのか。この旋律はどの楽器の音で、ピアノではどのように表現したらその音色に近づけられるか。楽譜から読み取れるテンポや強弱はどのようなものか。そのようなことを楽譜から瞬時に読み取り演奏に活かしていくことになります。
どんな難解な楽譜を渡されても、即座に読めるようになるために、毎日図書館であらゆる楽譜を借りてきて、片っ端から初見で弾くということを繰り返してきました。他の楽器の友達も巻き込んで、アンサンブルでの初見をしていたことは、パリ時代の最もよい思い出です。
初見能力に関してはまだまだ目標とするレベルには程遠いのですが、「楽譜を読む」ということに関しては、これらの経験のおかげで自信が付きました。
最も慣れ親しんだ言語としての楽譜
「楽譜を読める」という自信が付くには長い時間がかかりましたが、楽譜が読めるだけで、古今東西あらゆる音楽を、音そのものを聞かなくても脳内で流すことができるようになります。
今でも、筆者にとって長編小説を読むよりは、オーケストラの楽譜を読むほうが楽に感じます。物心がつく前から慣れ親しんできた楽譜は、どんな言語よりも、すっと身体の中に入ってくるように思います。(作曲家、即興演奏家・榎政則)
⇒Zoomでピアノレッスン、D刊・JURACA会員は無料
榎政則(えのき・まさのり) 作曲家、即興演奏家。麻布高校を卒業後、東京藝大作曲科を経てフランスに留学。パリ国立高等音楽院音楽書法科修士課程を卒業後、鍵盤即興科修士課程を首席で卒業。2016年よりパリの主要文化施設であるシネマテーク・フランセーズなどで無声映画の伴奏員を務める。現在は日本でフォニム・ミュージックのピアノ講座の講師を務めるほか、作曲家・即興演奏家として幅広く活動。