『ペンズオイル・ニスモGT-R(BNR34/1999年)』デビューイヤー王座獲得の命題を達したBNR34【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1999年の全日本GT選手権(JGTC)のGT500クラスを制した『ペンズオイル・ニスモGT-R(BNR34)』です。

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 発売から20年以上が経っている今もなお、高い人気を誇るBNR32、BCNR33、BNR34の3代から構成される“第2世代”の『スカイラインGT-R』たち。その“末っ子”であるR34は、1999年1月に市販車が登場すると、さっそく同年の全日本GT選手権(JGTC)のGT500クラスでR33に代わってデビューを果たした(一部ブライベーターはBCNR33を使い続けた)。

 市販車のR34は先代R33より全長が75mm、ホイールベースも55mm短くなり、コンパクトなボディサイズとなったことが特徴の車両だった。このサイズダウンはレーシングカーとしてもメリットとなり、ボディ剛性が大幅に向上したほか、前後重量配分も改善。さらにドラッグが低減され、ストレートスピードの向上にも貢献していた。

 R33までGT-Rはストレートの遅さが弱点のひとつともされていたが、R34ではそれが改善されてトヨタ・スープラやホンダNSXといったライバル車に勝るスピードをマークするようになっていた。

 これには大きく重たい直列6気筒のRB26DETTをフロントに搭載しなければならないという“制約”がGT-Rにはあったため、現状以上にコーナリングの性能をアップするよりも、直線の速さを引き上げることを選んだという事情もあった。

 またR34ではそれまでトランクルームに搭載されていた燃料タンクをキャビン内へと移設。この燃料タンク搭載位置の移動によって、リヤのトラクションが不足してしまうデメリットを生んでしまっていたが、燃料残量の増減によってマシンバランスが変わりにくくなるという効果もあり、予選よりも決勝レースを戦ううえでの大きな武器となっていた。

 こうして誕生したR34のGT500仕様は、市販車の発売よりも早い1998年12月にシェイクダウンを行いテストを重ねて、鈴鹿サーキットが舞台となった1999年の開幕戦でレースデビューを果たした。

 この初陣においてGT-R勢の最上位である2位でフィニッシュしたのがエリック・コマス/本山哲組のペンズオイル・ニスモGT-Rだった。

 その後、富士スピードウェイで開催された第2戦以降もペンズオイルは予選でこそ中団から後方に沈むことも多かったものの、決勝では毎戦ポイントを獲得する安定感を披露。これはニスモによるピットワークの改善やタイヤに優しいサスペンションセッティング、搭載されるRB26DETTの燃費の向上といった要素が奏功した結果でもあった。

 そして第4戦MINEサーキットでは予選8番手スタートながら見事シーズン初優勝を達成した。ペンズオイルは開幕戦の2位、優勝した第4戦以外でも第5戦富士スピードウェイと最終戦ツインリンクもてぎと2度の3位表彰台を獲得するなど、結局全戦ポイント圏内でチェッカーを受け、見事コマスがドライバーズチャンピオンに輝いた(本山は第2戦富士をル・マン24時間レースの予備予選出場のため欠場しており、コマス単独での戴冠に)。

 勝利数こそ少なかったものの、抜群の安定感を披露してデビューイヤーチャンピオンを見事手にし、至上命題を達したR34。そんなR34は2年目となる2000年以降、さらなる大幅な進化を遂げていく。

1999年の全日本GT選手権第6戦TIサーキット英田を戦ったペンズ・オイル・ニスモGT-R。エリック・コマスと本山哲がステアリングを握った。
1999年の全日本GT選手権最終戦ツインリンクもてぎでエリック・コマスと本山哲がドライブし戦ったペンズオイル・ニスモGT-R。

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