「議論」と「対話」

 「議論」も「対話」も、何かのテーマを巡って、誰かと言葉や意見を交わすのは同じだが、この二つは似ているようで正反対なのだという。〈ディベート(議論)は話し合う前と後で考えが変わったら負けなんですが、対話は前と後で変わっていなければ意味がない〉▲と、説くのは哲学者の鷲田清一氏で、変化や譲歩や和解に進まないと「対話」には意味がないが、この頃は対話と言いながら皆、ディベートばかりしている…と氏の説は続く。内田樹氏との対談集「大人のいない国」から▲久しぶりに読み返しながら最近の岸田文雄首相の様子を考えた。例えば、長崎で12月に第3回会合を開くことを先の代表質問で明らかにした「国際賢人会議」のこと▲長崎を「最後の被爆地」にするための確かな成果を期待したいが、併せて問われた核兵器禁止条約締約国会議への参加は「条約に核兵器国は一国も参加していない。核兵器国を関与させる努力をしなければならない」と相変わらずのゼロ回答だ▲しかも「努力」に主語がない。決して自身や日本の決意を語ったわけではなく、関与に向けた努力は締約国の仕事-という意味かも、と気づいて絶句した▲被爆地の声を聞いて、と対話を呼びかけてきたつもりだったが、彼の方は「議論」を続けていたのだろうか。(智)

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