好きな人に“合わせる”のが「愛」だと思っている人が見落としていること

片思いの相手でも恋人でも、相手のしたいようにしてもらう、自分はそれに合わせるのが愛情だと思っている人は一定数います。

一見すると相手のことを考えているように思えますが、注意したいのは「合わせてもらう側」の気持ち。

「自分のしたいようにさせてもらえる」は、同時に「何でも自分が決めなければいけない」のプレッシャーが生まれるものです。

「相手に合わせるのが愛情」なのは本当なのか、意識したいことについてお伝えします。

「相手に合わせる」愛情の弊害とは?相手はどう思っている?

「好きだから合わせる」人が見落としているもの

よくあるのは、「彼氏とのデートで食事に行くお店を決めるとき、『君の好きなところでいいよ』と言って一緒に決めてくれない」「彼女に『あなたが行きたいところに付き合うよ』とデートの計画からこちら任せにされる」と、片方に負担がかかる状態です。

これを、合わせている側は「相手の好きを尊重している」と考えており、「したいようにできるのだから相手は不満に思わないはず」という思い込みがあります。

自分の要望より好きな人の気持ちを優先できる、「合わせる力がある」自分に安心しているのですね。

一方で、自分に自信がないから相手の気持ちを最初に持ってくる、したいことを叶えてもらうことで愛情を伝える、という人もいます。

行きたいお店をそもそも思いつかないし、それなら相手の気持ちを大事にしてそこに「付き合う」ほうが、相手も喜ぶし自分もストレスはない、と本当に思っている場合もあります。

どちらも、共通しているのは「相手のことが好きだから」という気持ちで、自分が合わせる側になるのは愛情ゆえ、それを相手にも受け入れてほしいと願っています。

このとき、「合わせてもらう側」の気持ちはどうなのでしょうか。

冒頭で書いた通り、「一緒に決めてくれない」「こちら任せにされる」の負担は、相手は自分を尊重してくれているとわかっていても一方的でプレッシャーになる場面もあり、受け取り方が「合わせる側」とはまた違ってきます。

「たまにはそっちも決めてよ」と本音を言えば、「いつも合わせてあげているのに」と不機嫌になられたり、「思いつかないし」と検索することすら放棄されたり、「合わせる側」からの提案がないことは大きな寂しさを生むときも。

これが、「合わせるのが愛情」と思っている人が見落としている部分です。

「一緒に」が叶わない寂しさ

長く交際が続いているカップルや、落ち着いた結婚生活を送る夫婦の話を聞いていると、デートで行くお店を決めるときは「ふたりの満足が叶うところを話し合う」、「どちらかの気が進まないときは食事の仕方そのものを変える」など、「一緒に決める」が見えてきます。

パートナーが熱心に行きたいと思うお店に付き合うこともあるけれど、次は自分の興味があるお店に決めてもらうなど、尊重の形は「お互いさま」で片方に負担が偏りません。

相手の居心地のよさを把握しているのと同時に「自分もその時間を楽しみたい」と思うから、「あなたが決めていいよ」と任せきりにするのではなく「そこは◯◯が名物なのだね」と能動的に調べるような姿勢があります。

「合わせるのが愛情」と思っている人は、相手の気持ちに従うことに不満はない代わりに、「自分もその時間を楽しみたい気持ち」を伝えているでしょうか。

多く見聞きするのは「お店の場所も行き方も全部相手が把握して自分は聞くだけ」「自分は運転するだけ」など相手に引っ張ってもらっている状態。自分からお店や周囲の情報を知ろうとしないし「新しい提案」もありません。

合わせてもらっているはずの相手が不満を覚えるのは、「好きにしていいと言われたけれど、結局は全部こちらが決めないといけない」状態になるから。「たまにはそっちも」とお願いしたくなる、決める役割から逃れて「ラクをしたくなる」のは、決定のプレッシャーが大きいからです。

「一緒に決めたいのにな」と思っても相手がそれを放棄していれば、自分が行きたい店に足を向けても相手が楽しんでいるかどうかを気にすることもあるでしょう。

片思いでも交際中でも、食事や買い物など一緒に過ごす時間はかけがえのない大切なもの。

だから「ふたりで話し合って決めたい」と思うのは自然であって、これを「あなたの好きにしていいよ」で置かれてしまうと、相手の気持ちそのものに不安を感じます。

「合わせるのが愛情」と思っている側はそうする自分に違和感はなくても、相手が抱える「一緒に」が叶わない寂しさを解消することはできません。

ここで、「いつもこちらばかりが決めて大変だから、たまにはそっちが動いてよ」と言われたら「何でそんな言い方をするの」「いつも付き合ってあげているのに」など反発が生まれるようなら、その「合わせるのが愛情」は本当なのかどうか、疑問です。

「合わせる」はお互いがすること

たとえば、おうちデートでどちらかが夕飯を作る話になったとき、「何を食べたい?」と聞いて「何でもいいよ」と返されたら、たとえ相手はこちらのことを思いやってそう言ってくれたのだとしても、「任されるだけ」「自分で決めないといけない」となるとやはり落胆や寂しさは隠せません。

それならいっそ「◯◯が食べたい」ときっぱり言われるほうがましですよね。しかし、「合わせるのが愛情」と思っている人にとってこの行動は「わがままで自分勝手」となるためまず口にすることはなく、どんな機会でも「相手の気持ちを優先する自分」を正解にしています。

その姿勢が悪いとは決してならないですが、それでも、置いてけぼりにされるのは相手の気持ちであることを、忘れてはいけません。

「何でもいいならあなたが決めてよ」とヤケになって投げやりに返してくる相手を見て混乱する人もいますが、任せきりにされる側は「一緒に楽しみたい気持ちが無視される」状態であり、それは寂しさなのだと知る必要があります。

「相手の好きなものに合わせる」のはお互いが当然に持つ気持ちであって、「合わせるのが愛情」と本当に思うのならば、相手の「あなたに合わせたい」という気持ちもしっかりと受け止めることが対等であり、その時間を充実させます。

「私は◯◯が食べたいな、あなたはどう?」「僕は◯◯もいいな」など、お互いの好みを伝えあって話しあって、「じゃあ両方作ってサラダも足そうか」となれば、ふたりとも「一緒に」満足できますよね。

「自分の好きは控えるべき」「こんな好みを相手が気に入るはずがない」「押し付けたくない」と、自信のない人は本音を口にすることを避けて「相手にすべてお任せ」で安心を得ますが、その姿こそ相手にとっては愛情が感じられないものであることを、想像したいですね。

自分も等しく「好き」を大事にしてもらえるのだ、という実感は、それを伝えない限り持てません。そして相手もまた、自分の「好き」を受け止めてほしいと当たり前に思っているのだと、意識したいですね。

「合わせてもらうこと」に疲れたら

この「相手に合わせるのが愛情」と思う自分を前に出す人のなかには、「たまにはそっちが決めて」と言われると自分を否定されたと感じてショックや怒りを覚え、雰囲気を悪くすることがあります。

こちらの「一緒に」が叶わない寂しさはまったく受け入れず、自分なりの愛情を正解としないことに不満を覚える人は、どんな場面でも「譲る」「相手を優先する」姿しか見せません。

そういった人は、それに感謝をせず文句を言うこちらの態度に「自分をないがしろにされている」と感じるため、関係は窮屈で常にこちらが引っ張っていく側となります。いつまで経っても「ふたりの」居心地のよさは生まれません。

こちらの気持ちが優先される申し訳なさから罪悪感を抱き、好きだからと接触を続けていれば、相手は自分の在り方を正解とする押し付けに気がつく機会もありません。

「合わせてもらうこと」は実際は疲れることも多く、それは一緒にいて楽しいという感情を奪うため、「ふたりで話し合って決める」やり方がストレスを減らします。

それが叶わないとわかったときは、自分の寂しさを伝えて距離を置く、相手にもふたりの居心地のよさを改めて考えてもらう時間を作るのが賢明です。

合わせる姿に愛情は宿りますが、それ一方では相手の寂しさは避けられないこと、お互いが合わせてより良い在り方を一緒に決めていくのがあたたかい信頼を育てることを、話し合えるといいですね。

自分の気持ちを言わずに相手の好きを優先する。それは確かに愛情ですが、相手がもし「あなたも」と本音を尋ねてきたのなら、そのときは素直に自分の好きを口にする勇気を持ちたいですね。

ふたりのつながりに大きな愛情を作るのは「一緒に」が叶う場面の繰り返しであり、受け入れあう姿が何よりの安心のはずです。

合わせる一方ではなく「一緒に決めていく」姿勢が、長続きする恋愛の秘訣といえます。

(mimot.(ミモット)/ 弘田 香)

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