京都市の復活は高速道路の地下引き込み? 論争必至の大胆提言「このままでは衰退」

オフィスビルやマンションが立ち並ぶ京都駅周辺。他の大都市に比べ、建築物の高さは低く抑えられている

 近現代の京都の歩みを経済学の視点で読み解いた京都大名誉教授・有賀健さんの著書「京都 未完の産業都市のゆくえ」が話題だ。伝統と革新の融合として語られがちな歴史都市イメージに待ったをかけ、統計データを駆使して通説とは異なる京都の実相を浮き彫りにしていく。

 このままでは衰退する-。データが示唆する未来に、有賀さんは「現状の分析だけではなく、対応策も示したかった」と、大胆な提言を盛り込んだ。論争必至の内容だが「中立的に描いても面白くないでしょ」と笑顔を見せる。

 著書ではまず、京都をめぐる「常識」に疑問を投げかける。「空襲がなかったから古い街並みが残った」「千年の伝統が革新的企業を生み出した」といった通説は、統計資料が示す数字に反しているという。有賀さんがそう考えるきっかけになったのは1枚のグラフだった

 ■戦前までは成長都市

 それは、明治期から現代までの京都市の人口が日本の総人口に占める割合の推移を示していた。ピークを見ると1939年。つまりこの時まで「京都は日本の人口増加ペースを上回る速度で成長を続けていた」ことになる。

 「京都は明治維新で首都の座を失って以降、緩やかに衰退し続けたという印象だが、データは違うことを言っている。とても意外だった」と明かし、こう続ける。「明治期から現代に至るまで京都の街や社会でどんなことが生じたのか、分かっていないことがまだたくさんあるのではないか」

 戦前の京都は、東京や大阪に後れを取りながらも、大正から昭和初期にかけては交通インフラの整備や市南西部での製造業の発達、さらに戦争経済との結びつきにより順調な成長を遂げていたという。有賀さんは「そこに特別の要因が働いたわけではない」とし、むしろ戦後の「停滞」に京都固有の事情を見いだしていく。

■町衆が阻んだ産業化

 自営業率の高さや産業構造のデータから「高度成長期を経てもなお西陣や室町が町の主人公であった」と指摘し、この強い町衆の存在が「1990年代まで町家が連なる街並みを残し、それと同時に都心部の産業化を阻んだ」と展開する。

 「戦後、多くの都市の中心部は再開発が進んだのに対し、京都は昔ながらの地籍が残り、交通インフラも整わなかった」。そのため、高度経済成長の後半に現れた世界的な企業の多くは「市南西部に集中し、京都の都心とあまり関わりない形で成長を遂げた」と語る。

 そしてバブル崩壊で都心部の産業は一気に衰退し、空洞化が進んでいると有賀さんはみる。

 そこで注目するのは昼間就業者数だ。他の都市と比べても群を抜いて落ち込んでいるという。「人口の減り方よりはるかに雇用の減り方が激しい。これは都市として相当まずい」

 市の施策への批判も手厳しい。「高さ規制を緩和しても、少し高いマンションやホテルが建てられるようになるだけ。大きなオフィスの確保が難しく、交通インフラが脆(ぜい)弱(じゃく)なままでは、人口は戻っても雇用は増えない」「町家もすべて残すのではなく、特定の景観地区を設けるなどの工夫が必要」と説く。

■御苑に高速IC?

 そこで、思い切った処方箋を示す。中心部の「田の字地区」で区画整理事業を行い、細い道路網を整備、拡張する。さらには高速道路を地下化して中心部まで引き込み、京都御苑の敷地内に出入り口を作る。「歩くまち京都というけれど、責任放棄にしか聞こえない。実態は『歩くしかない京都』でしょう」

 「京都に魅力を感じる人は多いのに、残念ながら働く場所にはなっていない。観光だけでいいのだろうか。世界的にユニークな業務地区としてよみがえらせる手だてはあると思う」

 「京都 未完の産業都市のゆくえ」は新潮選書、1925円。

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