これが私の当たり前 「日々挑戦」モットーに、自ら世界を広げる全盲ランナーの日常 兵庫

宝塚ハーフマラソン大会で伴走者とともに走る全盲ランナー、酒井智彦さん(手前左)=2023年12月24日、宝塚大橋

 「もう少し、あと10メートル」「あと5メートル!」。昨年のクリスマスイブ、兵庫県宝塚市内の武庫川河川敷。冬空の下、2人はゴールラインを駆け抜けた。先に全盲ランナーの酒井智彦さん(69)=同県丹波篠山市。すぐ後ろに伴走し誘導する山田則夫さん(58)=神戸市須磨区。「やりました! ありがとうございます。山田さんのおかげです」。酒井さんは、相棒にハグで完走の喜びと感謝を伝えた。輪にした短いロープが2人をつないでいる。

 走破したのは4年ぶり開催の「宝塚ハーフマラソン大会」10マイル(約16.1キロ)部門。「60代最後のレース。無事完走でき、目標タイムの1時間45分も切れた」と満面の笑みを浮かべる。

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 酒井さんは難病の網膜色素変性症のため次第に視力が低下。45歳で全盲となった。目が不自由ながら、モットーは「日々挑戦」。できるだけ外出し、さまざまな人々との交流を心がけている。ブラインドマラソンには8年前から挑む。還暦過ぎの取り組みだ。

 そんな酒井さんの「日常」を知ろうと自宅を訪ねた。家の中では移動に不自由はない。料理も自分一人でもできる。通い慣れた最寄り駅への道も、白杖(はくじょう)を手にスタスタ。その歩みの速さが意外だった。「私たちは記憶が大事」と笑う。

 手にしたスマートフォンにも驚かされた。画面が「真っ黒」のまま操作する。タッチパネルを見ずに扱うので、点灯させず真っ暗で使うという。

 「画面内容を読み上げてくれるソフトのおかげ」と酒井さん。骨伝導イヤホンを装着し、音声を頼りに、指で画面をたたいたり、指を上下左右に滑らせたり…。メールもネット検索もLINE(ライン)も使いこなす。

 「技術が進み、パソコンやスマホで世界が広がった。できることがとても増えた」と喜ぶ。音声やキーボードのブラインドタッチなどで、スマホやパソコンを使うことは、多くの視覚障害者にとって、いまや「当たり前」なのだ。

 だが、その音声が実に「早口」。読み上げ速度や声の高さを調整でき、酒井さんは「1.7倍速」の音声で聞き、操作する。「(時間短縮のため)若い子は1.9倍速とかで使ってますよ」と聞いてさらに驚く。

 パソコンでは、映画や動画を、場面設定や情景、人物の動きを言葉で伝えてくれる音声ガイド付きでネットで鑑賞。「小説だって音声で楽しめます」

 音声ガイド付き上映があれば映画館へも出向く。「最近面白かったのは『翔(と)んで埼玉』の続編。1作目も良かった」と相好を崩す。

 スマホの電話帳には約1200人を登録。障害の有無を問わず、カラオケや長距離走などを通じ、仲間や友人を増やし、リアルやメール、オンラインでつながっている。「人と話し、やりとりするのが好き。障害は不自由だけれど不幸じゃない」と酒井さん。一昨年、右足と腰を骨折したが、昨年はリハビリで復活。「今年はフルマラソンの初完走を目指す」と意気込んでいる。(堀井正純)

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 世の中の「当たり前」は国や時代で異なり、変化する。昭和の常識は令和の非常識かもしれない。いや、この多様性が尊重される時代、「当然のこと」「当たり前」も人それぞれだ。個性や特徴、趣味、所属する集団など、背景によって違ってくる。筋肉を愛してやまないボディービルダーやファッションモデルら、丹波ゆかりの4人の日常を通し、「当たり前」を見つめ直す。 <マイスタイル> ・スマートフォンは真っ暗の画面で操作。音声による案内は1.7倍速で聞く ・長距離走の練習では、伴走者と走りながら世間話をする。レースではゲストランナーで元五輪選手の小林祐梨子さんと約1分間、並走しておしゃべりしたことも ・就寝前のストレッチと、寝転んでの「空中自転車こぎ」は日課 ・外出時にスマホと折りたたみ式キーボード、骨伝導イヤホンは必携

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